日記

死んだらどうなる? フロイトの宗教批判

おはようございます。住職です。

予報では今朝は雪だったのですが、全然大丈夫!

やっぱり暖冬。寒い日ではありますが、これくらいが例年の冬くらいかもしれません。

今年は暖かい日が多いので、私的には嬉しいのですが。しかし、この暖冬こそ温暖化の影響で

、これは今後大きな台風やこれまで経験したことのない気象現象に繋がっていると考えれば、

とても暖冬を喜んでいられません。むしろ寒くていいから、例年通りの気候であって欲しい。

心底そう思います。

異常気象での天災なんて、予期できない規模だし、人類はついていけません。

自然相手じゃ、人になす術はありません。

もっとも、人類がこの温暖化を引き起こしたというのなら、私達に責任があるんだけど(-_-;)

私も意識を変えることも必要だと思い、最近少しですが意識しています。例えば、無駄に電気を使わない。

電気を消したり点けたり、頻繁にしたり心掛けてます。

しかし、どこまで効果があるのか?むしろ、実は効果がないとか、逆効果である!という事もあり得るかも

しれませんね。正直、正しいことが何なのか?がわかってません。

私達の頭なんて、所詮、自分が理解できる範囲のことでしか把握できません。当たり前のことです。

それが自分(人間の世界)の限界ということです。

例えば、それを超えるような事があったら、そもそも私達の頭で把握できないわけだから

理解さえできません。要は頭が追いつかないわけです。これを仏教では不可思議といいます。

「不可」とは「できない」ことを意味します。「思議」とは「考える事」という意味です。

「不可思議」ですから、「考えることさえできない」という意味。つまり、「理解できない」こと。

略したら「不思議」。不思議は今でも良く使う言葉ですね。

私達の頭では理解できない。つまり私達の論理の世界では追いつけない。

人間世界(私達の理解ができる範囲)である「論理」を超越していることを不思議といいます。

もちろん、不可思議と同意です。正式には不可思議。

因みに、科学は人間世界での常識である「論理」がベースですね。

論理とは、因果関係がきっちり説明できることです。だから、そのようにやれば、誰がやっても同じように

なる。これが論理。人間世界の中での、「間違いがないこと」です。(まぁ、それが正しいかどうかはわか

りませんが) だから科学は、人間世界の中では、間違いがないこととなります。信頼性も高いですね。

だからこそ、科学には高い再現性や証明性が求められるのです。

しかし、それは所詮人間世界でのこと。つまり、人間の頭脳で把握できる範囲の因果関係した考えられない

世界でのこと!なわけです。

人間世界を離れてしまったらどうなるの? つまり「死」とは人間世界を終えることです。

死後の世界は?と興味ある方もおられるでしょうが、これは残念ながら人間世界で理解できる論理を超えて

しまっているので、説明ができないのです。

これをもって、仏教では仏様の世界を不可思議と呼んでいるのです。

そういえば昔、フロイトという精神分析学の創始者がいました。(確か、コンプレックスということを言い

出した方だったような・・・忘れてしまいました。(/ω\))

フロイトのご両親は、敬虔なユダヤ教信者。「神こそが真理(=真実)」とか言っていたのでしょう。

しかしフロイトはそんな両親についていけなかったのでしょうね(笑)。

やがて宗教を批判をすることになります。宗教を批判し、科学こそが真理だと言い出します。

一見、なるほど!と思うのですが、私からすれば、フロイトは人間世界の事しか信じられなかったの

だろうか?と思わされます。換言すれば、何でも人間の頭脳で説明がつく!と過信しているようにも。

フロイトの宗教批判は、もし神が真実(=真理)だというのであれば、全人類に平等に理解できるもので

なければならない。真実とは、誰にとっても平等でなければならないし、誰にとっても真実(間違いがな

い)でなければならない。しかし、現実は違う。

例えば、「神の愛を受けたという人がいる一方で、神の愛を感じない人もいる」

あるいは「神が私のもとに舞い降りてきてくださった」などと言う人もいるが、ほとんどの人はそうではな

い。このような場合、神は平等ではないし、そもそも神を感じない人にとっては、神が真実(間違いない)

かどうかを判断できる素地が失われており、神が果たして真実だかどうかもわからない。

一方で、科学は万人に平等であり、誰にでも説明ができる。つまり、万人が間違いないかを判定できる。

従って、私(フロイト)は、科学こそ真実であると考えるのだ! という論理構造で宗教批判をするので

す。一見すると、「おぉ!フロイト 流石。本当にそうだ!」!となるのです。

しかしながら、大事なことが抜けています。

フロイトは人間世界の論理で説明がつかない世界のことを見ていません。代表的なもので言えば、

「死」です。「死」は人間世界での個人的命の終わりです。「死」を経験したら人間世界に戻ってこれませ

ん。「死んだまま」です。だから、「死」を人間世界で説明できた人は、これまで誰もいないのです。

「死」を経験して、戻ってきた人がいて、それを人間世界の論理にきっちりと当てはめられれば、説明でき

るのかもしれませんが、そんな人はいませんでした。

「臨死経験」された人はおられますが、しかしそれは本当の「死」ではないわけです。もっと言えば、臨死

経験を人間世界の論理で語ることは難しいとも言われてます。

人間生きている人は、誰もまだ「死」を経験していません。だからこそ、「死」を知らないわけです。

だから「死」が、どういうことなのかわからないのです。

「死」を経験したら、人間世界に戻ってこれないということは、人間世界を超越した状態になるからでしょ

うね。そうだとすれば「死」は、私達人間の世界で理解できることを超越していることを意味します。

仮に「死後の世界」なんていっても、それはもはや私達の頭を超越しているので、説明なんかできません。

不可思議なのです。

あるいは例えを変えると、「時間」ということも人間世界では説明がつかないものかもしれません。

あるいは、時間はいつから始まったのか?とか。

時間に始まりがあったとすれば、時間が始まる前はどのような状態だったのか?

よくビックバン!から全てが始まったとか聞きますが、ではビックバンの前は何だったのか?

だって、ビックバンが起こるということは、何かしらの現象というか、きっかけがあったはず。

始まりがあるということは、終わりもないといけませんね。時間が終わるとは、どのようなことか?

時間が終わったら、その後はどうなるのか? 因みに、仏教では「無始無終」と言ってます。

あるいは、ブラックホールの先はどうなってるのか?

このように、人間世界の論理で説明ができないことは多々あります。これらは、もっと科学が深まれば、

解答できる!というような分野ではないと、私は思っています。もちろん、説明できるような分野もあるで

しょうが、全ては無理です。人間の世界の限界があるからです。

フロイトは、人間世界での事しか語っておらず、そこをもって宗教を批判しますが、そもそも宗教は

人間世界を超越したところのこと、と、人間世界との関係を説いているわけなのです。

だから、残念ながらフロイトの批判は、実は批判になっていないというか、筋違いなのです。

筋違いというか、人間の世界こそ全てだ!と考えているフロイトの慢心さえ感じてしまうのです。

そんなフロイトも「死」んでしまいました。もはや、不可思議。

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