宗教と芸能
こんにちは 副住です。
過日(2012年10月23日のブログにて)ご報告いたしました「落語の中の浄土真宗」。
「お座参り」と「お文さん」の2席を笑福亭松喬師匠が演じてくださいました。
この作者は、相愛大学の教授 釈 徹宗(シャク テッシュウ)先生なのですが、
先生が待合室で待機されている最中、あるやり取りをさせていただきました。
今日は、その裏話を綴ってみようと思います。
釈先生は今、浄土真宗を語る若手の学者さんとしてメディアで注目をされている先生です。
(浄土真宗のお寺のご住職であります。もっとも、先生のご専門は宗教思想・人間学とのことですが)
先生は近年多数の著書をご出版されておられます。
以前、私が仏教書レビュー(本願寺派に属する総合研究所・東京支所が行う近年刊行された一般仏教書の紹介をするサービス)
index.htm
にてご紹介させていただいた「はじめたばかりの浄土真宗」の執筆者でもあられます。
実は、その本の中にはこんな文章があります。
「宗教的確信をもつことが倫理的なふるまいを妨げている」(この本は内田樹さんとの書簡のやり取りを書籍化したもので「 」内の言葉は内田さんが綴った言葉)
難しいいい方ですが、簡単に解釈すれば↓
宗教的な経験をした人の行動は時として、常識的(倫理的)行動から外れてしまうときがある。
ということです。もっと短絡的にいえば、え!?と倫理的に思ってしまう行動が、宗教的経験をした人の中では自然となってしまう。ということです。
そこで私はこんなことを思いました。
宗教が伝わり辛い側面の一つに、上記のことが理由となっているような気がする。とのことです。
つまり、宗教的な行為は、必ずしも周りの人から憧れられる行動と映っていない。むしろ異常?と敬遠されてしまう方面で捉えられてしまい
その結果、倫理的な(普通の)人からは、その宗教に対して歩み寄りづらくなってしまう側面があるのではなかろうか?ということです。
そうなると、宗教に対する信仰というものに憧れがでてき辛い状況が生まれてしまうので、宗教は自ずから衰退の方向へと歩を進めていくのではないか?
という疑問でした。
ちょうど釈先生が来られていたので、そのことをお伺いしてみました。
すると・・・
釈先生は面白いことを教えてくれました。
宗教的行動は 必ずしも倫理的とは限らない。むしろ一つの濃縮した方向へと向かっていき
倫理がどうだ!とかを超えてしまう。だから、自分の世界に入ってしまう。そこが、周りから不思議に思われるところはあるが、
その世界観が倫理的に受け入れられる場所もある。それが芸能(芸術でも同じか?)という場所である。
濃縮された世界観が、一般の世界へ現れ出る場所こそ芸能(芸術でも同じか?)なのでしょう。
だから、芸能(芸術?)には見えない世界が感性の中に表出されているのです。
落語という芸能も、そのような表現形態として成立しているものだと思います!
と教えてくださいました。つまり、宗教には芸術が不可欠な部分であるということです。
であるならば、浄土真宗はもっと芸能に力をいれてもいいのではないか?と思ってしまいました。
絵画や建築など 色々な芸能を通じて浄土真宗の信仰の表現を確立させていくことも大切でしょう。
そこに憧れをいだき、浄土真宗に興味を抱く方が増えてくれば、宗教の拡がりという方向が望めそうな気がします。
最後に「落語の中の浄土真宗」についてこんな記事があがってました。
20121027-004.html