親鸞聖人と玉日姫 吉光女 比企一族
こんにちは 副住です。
昨夜は、比企青年会議所メンバーの一人Kさんからのお誘いで
比企について知る勉強会に参加してきました。
東松山市は昔、比企という地名であり、地域の歴史を知るには比企を知ることが大事となるのです。
比企という地名の由来は、比企一族にあるのです。
比企一族が住んでいた場所が、比企というエリアなのです。
(元来の比企エリアは東松山市と滑川町だそうです)
比企一族で名を残すのが比企尼(ひきのあま)という方です。
この方、源頼朝の乳母であり、頼朝がまだ力を持つ以前に色々な支援をしていたそうです。
源頼朝が幕府をひらき将軍になったことで、これまで世話になった比企尼を始め、比企一族は特別待遇を受けることに。
比企一族は鎌倉時代に力を強めた一族なのです。(比企一族の数名は鎌倉に招かれ移り住んでいます)
なので、鎌倉には比企一族や地域に由来する場所がいくつかあります。
(これは以前のブログにも綴りました)
もう一度おさらいですが、鎌倉にある妙本寺はそうです。
あと、妙本寺近くにある川は滑川とありました。
比企一族の力は強大になり、いつしか比企一族をライバル視した北条政子の策略によって、比企一族は滅ぼされてしまうこととなります。
歴史は常に勝者によって事実を歪曲され、書き換えられていきます。
比企一族は、敗者ですので、その歴史は抹殺されました。
資料もあまり残っていません。
しかし、当地(現東松山市と滑川町)には口伝として、色々な箇所に言い伝えが残っています。
それら言い伝えや、少ない資料を辿って、比企の研究をしてきた方がおられます。
それが比企総合研究センターを立ち上げられた高島敏明さん。
高島さんは主に文明論を研究されてきた方です。その高島さんから昨夜はお話を伺いました。
驚くことに、比企地域の口伝の中で、親鸞聖人に関する重大なものがありました。
私的には嘘だろ!?と思うほどの衝撃。
高島さんが書いた「比企学事始」の中ですが、こんな文章が。
ある系図をみると親鸞聖人の子供に、範意さんという方がおられます。
この範意さんのお母様は、誰なのかわかっていません。
親鸞聖人の妻は恵信尼さまと言われていますが、学説では範意さんのお母様は恵信尼ではないことになっています。
そこで、恵信尼さんの前に妻がいたのでは?と言われているのです。
その妻が玉日姫(たまひひめ)と言われる方ではないか!?とこれまで囁かれてきました。
しかし、玉日姫は関白の九条兼実(月輪殿と呼ばれていた)の娘。
玉日姫に関する資料というものはあまりなく、お墓がどこかにあったくらいしかわかっていません。
それに親鸞聖人とは身分が違いすぎるし、親鸞聖人の妻とするには不自然であると言われてきたのです。
今はほとんど玉日姫が親鸞と結婚したとする説を信じる学者はないそうです。でも少しはいるみたい。
ただ、親鸞聖人が玉日姫と接点をもった理由も伝えられてはいます。
それは法然聖人を尊敬されていた九条兼実(月輪殿)が、法然聖人に質問されたことがありました。
それは「念仏の教えは、出家も在家も関係ないというが、結婚をしていても浄土に往けるものだろうか?」との内容だったと思います。
すると法然聖人は、「問題ない」とお答えになる。
そこで、九条兼実は「だったらわが娘(玉日姫)と結婚できるものがいるか?」と言われ、そこで親鸞聖人が紹介されたと言われています。
(確か、そんな内容だったはずです。詳細は確認してませんが、だいたいそんな感じです)
その玉日姫が、比企の出生だったと高島さんは書かれています。
また親鸞聖人を生んだ吉光女も、何か当地と関係がありそうです。
口伝ですから、本当?と疑ってしまうわけですが、火のないところに煙はたたない。
しかも、浄土真宗と縁が薄い地域で、親鸞聖人と関係する方々の口伝なんて疎かになりがちです。
それらを考慮すると、口伝で伝わっていること自体が不思議で仕方ありません。偽情報をつくる意味がないからです。
さらに、九条兼実は月輪殿と呼称されていたようです。
滑川町の東武東上線の駅に月の輪駅があります。
これは月輪殿、つまり九条兼実からきたものです。当地に九条兼実の荘園があったからと言います。
そうなると、この地は鎌倉時代、九条兼実とかなり縁が強かった地域の可能性があります。
だからこそ、玉日姫が月輪という場所で出生したと伝えられているのは、あながち不思議ではないのです。
ただし、比企一族は滅ぼされてしまいますので、資料があまり見つかりません。
もっと当地を研究することで、資料がでてくる可能性もありそうですね。
興味深いね。