蓮如上人が建てた石山本願寺

投稿日: コメントをどうぞカテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

昨日の続きです。鎌倉時代以降、浄土系の宗派が誕生し、徐々に浄土系のお寺も増えていきます。

浄土真宗本願寺派に限って言えば、本願寺派八代宗主の蓮如上人(1415~1499)までは非常に勢力も弱く、

本願寺派のお寺も少なかったのです。

しかし、室町時代に蓮如上人の活躍によって、他宗のお寺が浄土真宗本願寺派に改宗したり、浄土真宗の他

の派(興正派)のお寺が本願寺派に改派をしたりと、大きく勢力を伸ばすこととなるのです。

蓮如上人(画像引用)

もちろん、新しくお寺が建つこともありました。

ようやく、浄土真宗本願寺派のお寺が町中に増えてきた時代です。

因みに、蓮如上人の功績によって、現在の本願寺派は大きな勢力として存続できているのです。

蓮如上人がでられる前は、本願寺派は風前の灯火だったとも言われており、蓮如上人がいなければ、本願寺

派は無くなっていた可能性が高いのです。

因みに因みに、蓮如上人が、現在の大阪城を見出し、当時はそこに本願寺を移転させたのです。

それを石山本願寺と言っていました。

石山本願寺(画像引用)

本願寺8世の蓮如上人亡き後、本願寺11世の顕如(ケンニョ)宗主の時に、織田信長と本願寺は戦をする

こととなってしまうのですが、織田信長が落とせなかったお寺こそが、石山本願寺なのです。

後に、信長が苦戦した石山本願寺との戦を知っていた豊臣秀吉は、その地に城を築けば落城できない城とな

る!と、築城するには好立地であることを見抜きました。

これによって、秀吉の時代に本願寺は石山の地から移転させられ、その跡地に大阪城が築城されるのです。

大阪城(フリー画像引用)

大阪城は、徳川家康も攻め落とすことが不可能である!と認めた好立地のお城でした。

家康は自分では攻め落とすことができないことを秀吉に認め、あえて秀吉に「落城の仕方」を乞うたと言わ

れています。

秀吉が亡くなった後、秀吉から教えてもらった大阪城の落とし方を用いて、夏の陣・冬の陣によって、

大阪城を落城させたのでしょうか。

さてさて、本願寺は石山の地から移転を繰り返し、最終的に、現在の京都の六条堀川の地に移ることとなり

ました。

秀吉の力によってです。

西本願寺(画像引用)

この際の移転では、秀吉が色々と用立ててくれたそうです。

京都の三閣の一つとされる「飛雲閣」も秀吉によって本願寺の境内に寄進されたとする説もあります。

飛雲閣(画像引用)

因みに、京都の三閣とは、金閣・銀閣・飛雲閣です。

蓮如上人は非常に先見の明があり、また、多くの他宗派のお寺を浄土真宗本願寺派に改宗させたり、多くの

信者を増やしたりと、非常に魅力的な方でもあったのです。

そのように力を有していた為、幕府から危険視され、色々な迫害を受けた方でもあります。

その為、迫害を警戒し、突然攻め込まれないよう、土地を見抜く目も持ち合わせていたのだと言われていま

す。

その目をもって選ばれた土地こそ石山本願寺が建つ土地なのです。

当時、その土地は周りに何もなく、田舎の原っぱだったと言われています。

浄土系のお寺の役割

投稿日: コメントをどうぞカテゴリー: 日記

こんにちは 住職です。

昨日のブログ更新を忘れてしまいました。お彼岸で忙しなくしておりました。

さて、連日元々のお寺の役割を振り返っているのですが、お寺に〇〇山〇〇寺などと言われる山号

について、豆知識程度に触れてみました。

つまり、お寺に山号が付けられているのは、最澄や空海の頃のお寺の役割がお坊さんの修行の場として成立

していた名残りであることを説明したのです。

ですから、この時代(平安時代頃)のお寺の役割は、僧侶の修行の場としての役割だったのです。

その後、鎌倉時代に入ると、多くの宗教者が現れるのです。

例えば、浄土宗の宗祖、法然聖人。浄土真宗の宗祖、親鸞聖人。曹洞宗の宗祖、道元禅師。

臨済宗の宗祖、栄西禅師。日蓮宗の宗祖、日蓮上人などです。

平安時代の仏教の代表宗派は天台宗(最澄様)と真言宗(空海様)ですから、お寺は人里離れた山にあるこ

とが多かったのです。これに対して、鎌倉仏教の代表格である「浄土系」(浄土宗や浄土真宗)の宗派は、

教えの特徴として、自分で厳しい修行を積んでいく教えではなくて、阿弥陀仏に救ってもらう事に感謝する

教えの為、多くの人々と教え(阿弥陀仏から救ってもらえること)を喜ぶことが大事となります。

つまり「阿弥陀仏に救ってもらう事とは、どういうことなのか?」を多くの人に説明(説法)していくこと

が大事になってくるのです。その説明を聞いて、「そうだったのか!」と喜ぶ人や、仏様に救われる教えを

もっと聞きいてみたい!と望む人に向けての活動がメインとなってくるので、人々が多く集まる集落に

お寺を建てる必要がでてきたのです。だから「浄土」が付く宗派のお寺は、これまでお寺が建てられた山

ではなく、集落に建てられてくることとなるのです。これが、浄土真宗のお寺に山号がなかった理由です。

これらは、各宗派のご本山のお寺の在り処をみれば、だいたいわかってきます。

禅宗の永平寺は、山の中にあるから、修行がメインだったのかもしれません。禅をするには、騒音から離れ

た方が良さそうだし。浄土宗の知恩院は、京都の比較的山側の麓にありますが、人里にあります。

浄土真宗の本願寺は、京都の街中にあります。日蓮宗の久遠寺は山にあるけど、池上本門寺は町中にありま

すね。

もっとも、現在の本山になるまでに、移転などをしている本山もあるので、すべてが今の本山をみればわか

ることではありませんが、自分の修行をメインに考えるお寺は、人里離れた山にお寺がありますね。

もしかしたら、日蓮宗もそうかもしれませんね。教えを勉強してみないとわからないんだけど。

という訳で、浄土系のお寺は人里にある理由として、その役割は阿弥陀仏の教えを伝え弘める役割と

教えを信者で共に喜ぶ為の役割があったのです。

龍谷の起源

投稿日: コメントをどうぞカテゴリー: 日記

こんにちは 住職です。

昨日の続きとして、一点だけ注意点を綴ります。

そもそも浄土真宗という宗派のお寺は、別日に詳細は綴りますが、僧侶が修行する為に建てられているお寺

ではありません。

むしろ、民衆と共に念仏を慶ぶ(よろこぶ)為の場所としてお寺があるので、山にはないのです。

民衆が集まりやすい町にあるのです。人里の中に建てられるべきお寺が、浄土真宗のお寺です。

ですから、他宗派のお寺とは、お寺の役割が異なっているのですね。

そのような理由で、基本的に浄土真宗のお寺には山号は不要なのです。だって、山に無いんだから。

だから、浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺には、そもそも山号はなかったのです。

しかし、近年、他宗のお寺にはそもそも山号があった!という認識のもと、だったら山号を付けよう!

となって、龍谷山本願寺と山号が付けられました。数年前の話しです。

この「龍谷」の起源は、実はオオタニという地名を表している文字なのです。

すでに、今はない漢字なのですが、左側に「谷」と書いて偏(ヘン)とします。そして右側の旁(ツクリ)

に「龍」と書いて一文字とします。つまり「谷龍」と書いて、一文字だったわけです。

その一文字を「オオタニ」と昔は呼んでいて、地名だったのです。鎌倉時代の話しです。

親鸞聖人がご在世の当時、今の京都の清水寺の近く、現在の大谷本廟がある地名が「オオタニ」。

現在は「谷龍」という一文字はありませんから、あえて偏と旁に別々に分けて、龍谷(リュウコク)とした

のですね。

本来であれば、谷龍(コクリュウ)っぽいですが、谷龍より、龍谷の方が響きも良さそうですね。

なぜ、谷龍ではなく、龍谷にしたのかまでは、私も知りません。でも、そのような理由で龍谷と使われる

こととなったのです。

さて、この「オオタニ」の地に、親鸞聖人のお墓は建てられました。

最初のお墓は、小さなお堂だったそうです。

「オオタニ」の地に、親鸞聖人のお墓のお堂が建てられました。

これが現在の西本願寺の起源となります。つまり、「オオタニ」の地から本願寺が始まったわけです。

ですから、浄土真宗本願寺派では、龍谷という字を大事にしているのです。

私の母校も龍谷大学ですしね。

「オオタニ」は、西本願寺にとって、根本となっている地名なのですね。

因みに、西本願寺の御門主(ご住職)は「大谷」という苗字を名乗られています。

おそらく、「谷龍」と関係しているのだろうと思われます。

因みに、東本願寺が本山となっている浄土真宗大谷派(お東)は、龍谷は使えないのです。

本願寺派が最初に使ってしまっているからです。

ですから、「大谷」を使用しているのだろうと思われます。

私なんか逆に、谷龍(コクリュウ)と使ってしまえばよかったんじゃないのかな!?などと思ってしまいま

すが、それは安易なのでしょう。

たまたま、西照寺のある地名も大谷なので、やっぱり山号は大谷山が良いなぁと私は思っています。

イレギュラーな山号

投稿日: コメントをどうぞカテゴリー: 日記

こんばんは 住職です。

今日はお彼岸の中日です。秋分の日。西照寺では、お彼岸の大法要を勤めました。

コロナ禍となって始めて、本堂内に椅子を設けて着座できる形で行いました。

もちろん、距離をあけて椅子を設けた為、人数制限となりましたし、扇風機などを利用し換気に注意を払い

徹底できたと思います。マスク着用に、手消毒、体温測定なども行いました。

ご参拝の皆様は大きな声も出さないので、大丈夫でしょう。

さて、昨日の続きですが、今日はぶっちゃけトークをしてみます。

昨日、お寺の山号の意味を綴りましたが、お寺の中には、本来の山号の意味ではなく付けられている山号も

あります。

言わなくてもいい事ですが、西照寺の山号がそれです。

西照寺の山号は雲龍山とつけています。しかし、そんな山はありません。

先代住職が勝手につけたものです。(笑)

因みに、山号は勝手につけてもいいのです。国などの正式な登記名称には、だいたい山号までは登録されて

いないからです。勝手に言っているくらいの感覚です。

そもそも山号の意味は、住所の役割でつけていたものですので、古くからある(1000年位前からある)由緒

正しいお寺には普通についているものなのです。

しかし、もっと新しいお寺。つまり300年以内の歴史のお寺であれば、お寺業界からすれば、新しいお寺な

のですが、そんなお寺には山号はないのが普通です。

その頃になると、山が住所の意味合いを表すことも無くなってきたからだと思われます。

しかし、お寺の世界の中では、古くからあるお寺には山号があって、山号があることが、ブランドみたいな

感覚があるのですね。

ですから、お寺業界の中には、今でも山号があるのは由緒あるお寺なんだ!みたいな、不思議な感覚がある

ので、新しくお寺を創建した住職は、意味もわからない山号を付けたがるのですね。

こんな事をされると、一般の人からすると、山号の本来の意味がわからなくなるのですね。

その果てに、逆にお寺の僧侶でさえ、山号の本来の意味を知らない人は結構多いのだろうと思います。

僧侶もわからないから、勝手に山号を付けてしまう!という状態になってしまうのでしょう。

この場合、山号の謂れは、何となくの感覚で付けているのだろうと思われます。

ですから、皆さんもそれぞれのお寺の山号を意識してみてください。

全然聞いたことない山号であれば、本来の山号の意味から逸脱したものだと思われます。

因みに、西照寺であれば、ここは大谷という地名があるので、大谷は山ではないけれど、山号をもしつける

とするならば、大谷山とつけるべきでしょう。

私が住職の間に、可能であれば大谷山と山号を改めようかと思っているほどです。

なぜ、すぐにやらないのか!?と言われると、先代住職がすでにパンフレットなどに雲龍山と明記して

しまっているからなのです。そうすると、変更したとしても全てを直さないといけないので、影響が大き

い。( ;∀;) 

山号(サンゴウ)の起源

投稿日: コメントをどうぞカテゴリー: 日記

こんばんは 住職です。

またも、夕刻の更新となってしまいました。

さて、昨日の続きです。

最澄や空海は遣唐使として中国に渡り、実際の中国仏教を見てきました。

そこで大事にされていた戒律や修行を知って、それを日本に持ち込んだのです。

だから、お寺を山の中に建てたのです。

この時代から、お寺は僧侶の修行の場としての役割が強くなります。

この影響から、だいたいお寺は「〇〇山〇〇寺」などと呼称されるようになるのです。

例えば、比叡山延暦寺。高野山金剛峰寺。などです。

「〇〇山」というのは、山号(サンゴウ)と言われるものです。

どうして山号があるのか?と言えば、当時からお寺は山の中に建てられていたので、住所の意味で山の名を

お寺の名前の前に付けていたのです。

例えば、当時何かの集まりで僧侶が集った際、「あなたはどこから来たのですか?」などと聞きますね。

その場合、お寺の名前だけ言ったのではわかりません。

どこそこの山にあるお寺です!と山号とお寺の名前を言うことで、通じるわけです。

今で言うならば、全国の人が集う集まりがあった時、同じ班に振り分けられた初対面の人が、自己紹介する

場合、「〇〇県の〇〇市から来ました」と言えば、市の名前まではしらなくても、県を知れば通じますね。

これと同じです。

因みにプチ情報ですが、「〇〇山〇〇寺」と名乗っているお寺が多いのは、そのような歴史があるのです

が、時に知らない山の名前が付いていることが結構多くあります。

そんな山ないだろう!?と思ってしまうのですが、結構多いのです。

そのような場合、山の名前ではなく、住職の苗字が山号になっている時もあるのです。

これはもっと、時代(平安時代よりも)が下ってからの応対として、そのような場合もある!ということで

す。

もし住職の苗字が山号として付いていれば、それはそれで由緒あるお寺です。

最澄様や空海様の時代のお寺の役割

投稿日: コメントをどうぞカテゴリー: 日記

こんばんは。住職です。

昨日の続きとなります。

そもそも、日本のお寺の発祥は、聖徳太子の時代でした。そこには、お寺の役割として、

人々の苦しみに応対する機能があったのです。

その後日本に仏教が色濃く根付く時代が、平安時代。

空海様や最澄様(以下、敬称略)が登場した時代です。

700年代後半頃でしょうか。

この頃になると、比叡山や高野山などにお寺が建てられます。

比叡山では延暦寺(天台宗)が、高野山には金剛峯寺(真言宗)が建てられます。

私の理解では、この頃からお寺は人里離れた山の中に建てられていくこととなります。

これには理由があって、人里にお寺があると、欲望の刺激が沢山でてきます。

例えば、女性を目にする機会がでてきてしまいます。食事に関心を奪われえる機会もでてくるでしょう。

世間の騒音に気が散る機会もでてきます。

これら、人里にお寺があると、お寺で修行する僧侶の気が散ります。修行に相応しい環境ではないのです。

だから、人里離れた山の中にお寺を建て、僧侶が修行に専念できる環境を求めることとなっていきました。

最澄や空海は、中国から仏教を日本に持ち込み、戒律や修行という面を強調することとなったわけです。

ここが聖徳太子の時代と異なる点です。

聖徳太子の時代は、日本に仏教が入ってきたのですが、まだ戒律や修行という側面が強くなかった。

仏教の教えは入ってきたけれど、戒律を守る!修行をする!という実践面はまだ強くなかったのだろうと思

われます。

ですから聖徳太子の時代は、教えに基づいた苦しみへの応対に、お寺としての役割が用いられたのだと思わ

れます。

しかし、最澄や空海以降、鎌倉時代までは戒律や修行の側面がお寺の役割に強く影響を及ぼしてくるので

す。

お寺のそもそもの役割って!?

投稿日: コメントをどうぞカテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

9月に入ってからというもの、連日雨が続き、肌寒い日も多く、秋になった!と思ってました。

ところが、秋のお彼岸になって、暑さが戻ってくるという、何とも不思議な陽気です。変なの。

さて、コロナ禍でのお寺の活動も、時代に合わせて適合していくべきだと考え始めました。

コロナ以前であれば、お寺に如何に人が来て下さるか?を考えました。密をつくることがお寺の活動

だったわけですね。ところが、コロナによって密を避けねばならなくなりました。

すると、そもそもこれまでのお寺の活動の基盤が崩れてしまう訳です。困った。

そこで、そもそも論として、お寺の基本的な役割を振り返ってみて、確認することが大事じゃないか!と

私は思い始めました。

さて、ここからが大変そうなのです。正直、ぶっちゃけトークも入ってくるから。

というのも、理想と現実という点を直視しないといけない場面だってでてくるからなのです。

内心を言えば、正直こんなことを綴らなくってもいいのです。いや、綴りたくないし。

しかし折角のブログですしね。私のぶっちゃけも、そのまま伝えられるし、これを見てくださっている

方にも見ごたえないとつまらないでしょうしね。 だから、ぶっちゃけに挑戦してみましょう。

そもそも論としてお寺って、歴史が古いけど、最初はどんな目的で設立されたの?という事から確認してみ

ましょう。

日本でお寺が誕生したのは、聖徳太子の時代ですね。法隆寺(斑鳩寺)、大阪の四天王寺、飛鳥寺などが、

その頃できたお寺で、今も残っているのですから、もう1000年以上古くからあるものです。

聖徳太子といえば、604年に制定されたといわれる、憲法17条が有名ですね。

だから、600年頃からお寺ってあるわけですね。

そう考えると、お寺って1500年近く、ずっと日本にあることになります。古!!!

当時のお寺は、決まった形がありました。境内に、4つの建物があることが基本形。

本堂(金堂)と塔(五重塔とか)と講堂と中門、それらが廊下で繋がっていたり。法隆寺がお手本ですね。

これらの建物を利用して、活動を行っていたようです。

主に活動内容を調べてみると、例えば、大阪の四天王寺には、四箇院という施設がありました。

①敬田院、②施薬院、③療病院、④悲田院、と言われています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E5%AF%BA

①敬田院=教えを学ぶ院  ②施楽院=病人に薬を施す院 ③療病院=病気を治癒する病院  ④悲田院=

養老院ということです。つまり、そもそも病院も薬局も老人ホームもお寺にあった施設なのです。

聖徳太子の建てられた四天王寺には、仏教を伝える以外にも、人々の苦しみのケアをする施設として

成り立っていたのですね。

さて、なぜこれらの施設がお寺にあったのか?というと、簡単です。仏教の教えと関係があるからです。

仏教は、苦しみを超える為の教えです。ですから、人間の苦しみというものに視点をあてるのです。

四苦八苦(シクハック)という言葉を聞いたことありますか? 私の年代以上であれば、当然の言葉ですね

。「いろんなことに四苦八苦している」などと、言ったりします。つまり、いろんな事に苦しんでいる!と

いう意味ですね。四苦八苦は、人間の根本的な苦しみの代表例として仏教で説かれるものなのです。

仏教で説かれている四苦八苦の四苦とは、「生老病死」の事です。

「老いる苦しみ」、「病気になる苦しみ」、「死ななければならない苦しみ」、これらの苦しみはどうして

起こってしまうのか?と言えば、私として生まれてきてしまったからだ!ということで、「生まれてきた苦

しみ」ということです。

これらの苦しみを超えていく教えこそが、仏教であり、超えた境地が成仏なのです。

だから、私たちが問題として抱えている苦しみについて、応対しないといけないのですね。

そんな理由で、聖徳太子は四天王寺を造った時に、上記の四箇院の施設を設けました。

そもそも、日本では病院も老人ホームも、お寺にあった施設なのです。それも1000年以上前から。

今では、病院も法人ホームもお寺と結びついてないでしょう。それぞれ独立しているから。

人々のイメージも、お寺が病院や老人ホームを経営していたら、何か怪しい!と思うかもしれません。

でも、元来はお寺にあったものなのです。今では、それらはお寺の活動から剥ぎ取られてしまった

わけですね。

お寺に残った機能は、敬田院です。つまり、仏教の教えを学ぶ場所!という役割。

さてさて、長くなったので、今日はここまでにします。続きは明日以降です!

コロナとの共生3

投稿日: コメントをどうぞカテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

台風一過で、久しぶりに、とても天気が良い朝を迎えています。

さて、「コロナとの共生」ということで、お寺も例外なく、コロナの影響を受けていますので

今後は、どのように対策していこうか!?を考えて、実践していかなければなりません。

コロナ以前と以後で特に変わった点といえば、「密を避ける」ことだと思います。

そもそも、お寺は人が集まる場所としての機能が強く、例えば、ご葬儀やご法事でも知人や親族が

集います。コロナ前から、バブルの頃よりも、参列人数が減っていたし、流れ的にはコロナがあろうが

なかろうが、少人数化していたわけですが、コロナによって拍車がかかった印象です。

仏事以外でも、お寺では催しを行ってきました。

西照寺であれば、夏にやっていた「西照寺こども祭り」や近年新たに始まった「文化財鑑賞会」なども催し

です。カラオケもやっていました。

これらは、不特定多数の方に来ていただく事で、盛り上がる行事であり、意義深くなる催しでした。

しかし、コロナ禍になると、特に不特定多数の人を集める行為は、注意が必要となります。

また、「お盆」「お彼岸」「報恩講」「法話会」など、門徒さんを中心とした共益行事もしづらくなりま

した。密をつくるからです。

こう考えていくと、これまでのお寺の活動は、多くの人がお寺に来て下さることを大事に考えていたのです

。ですからコロナ禍以降、「密を避ける生活様式」が推奨されるようになった事態は、これまでのお寺の

活動を見返してみると、大きな影響を被る事態ということがわかります。

しかも、コロナは「間もなく過ぎ去ってくれる!」というような感じでもなく、共生していかざるを得ない

ような感じになってきています。

となれば、早いところ、お寺もコロナに適合していく環境を創り出していかないといけないと思います。

これまで、そんな事を考えたこともなかったし、逆に密を作ることこそが、お寺がやっていくべき役割!

みたいな流れさえあったので、逆に振れるとなると、結構難しいものですね。

恐らくですが、私的に、ここで最大のポイントとなることは、お寺の本来の役割を確認することだと思う点

です。西照寺が行うべき役割!これを確認することが一番大事。その次に、その役割は、密を作らなくても

実現できるようなものなのか? 密をつくらなくても実現できるとすれば、どこに可能性があるのか?

という事を探っていくことでしょう。

残念なのは、密を作らないと実現できない!という場合です。これだと一気に厳しくなりそうな感じです

ね。

しかし、まぁ、ものは考えようで、必ず密を避けながらもできることはあるはずなのです。

そこが個人個人の考え方次第。あとは実践あるのみだと思わされます。

ど忘れ

投稿日: コメントをどうぞカテゴリー: 日記

こんばんは 住職です。

昨日も更新を忘れていたみたいです。今日も忘れていたのです。

そして、夕刻(現在17時半)になって、書斎のPCに向って作業をしていたのですが、

ふと、ブログ更新しなきゃ!と思い出したのです。

私は毎朝ブログ更新をしているので、昼過ぎになると、ブログを意識することはありません。

これは10年前からの習慣なので、自然とそうなってしまっています。

でも不思議なもので、数日更新が途絶えると、夕刻でも頭にブログの事がよぎってくるようになってきまし

た。凄い! 自分でも驚きです。

ここ最近、「コロナとの共生」というテーマで綴っていたのですが、大事な更新を忘れてしまい、今も

本来のテーマで綴ることなく、まるで日記のように書いてしまっていますが、明日から「コロナとの共生」

について、再投稿しなおさなきゃ!と思いなおしました。

明日は、ご法事が勤まりますが、改めて更新させていただきますね。(@^^)/~~~

異宗派勉強会

投稿日: コメントをどうぞカテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

ようやく体調も落ち着いてきたような気がしてます。もう少し様子見はしたいと思います。

昨晩は、日蓮宗と浄土宗の同年代のお坊さんと4人で勉強会をしました。

万一、お通夜を勤めたとしても、大丈夫であろう時間帯、21時スタートの勉強会です。

私は浄土真宗なので、皆さんバラバラな感じですが、皆さん共通して宗教者なので、話題があうのです。

因みに、宗教者と書きましたが、「救い」を求めて「教えの学び」や「修行」と向き合っているタイプのお

坊さんという意味です。だから、話していても会話があうのですね。宗派が違うけど、お互いを批判するわ

けでもなく、お互いがわからない部分を聞きあったりして、敬意があるのです。

年齢的にも、同世代(45~50歳くらいの間かな?)なので、交流もしやすいのです。

勉強会のテーマは、「南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経」という書物を輪読しながら、所感を言い合う!みた

いな会です。南無阿弥陀仏では法然聖人(浄土宗の宗祖)を取り上げ、南無妙法蓮華経は日蓮上人(日蓮

宗の宗祖)を取り上げ、お互いを比較していく! そんな内容の本となっています。

だから、日蓮宗のお坊さんが二人、浄土宗のお坊さんが一人。そして、なぜか浄土真宗の私が一人。となっ

ているのです。私からすれば、日蓮宗の教えは、不勉強なのでよくわからない部分があります。お題目って

何?(つまり、南無妙法蓮華経って何の意味があるの?)みたいな感じですね。

一方の浄土宗は親鸞聖人のお師匠様である法然聖人の教えが基盤ですから、当然似ている部分があるし、

そもそも私も法然聖人の書物を読んでいますので、基本的な理解はできていると思っています。

ただし、そこに宗派的な色がでてくるので、そこに対しては理解が不足している部分はあります。

それぞれの宗派の状況や、あるいは教えの理解などを教えてもらえるので、とても勉強になるし、面白い

です。

一般の皆さんからすれば、宗派の違うお坊さんって、交流あるの?ないの?と思われるかもしれませんが、

ほぼ交流はないです。あったとしても、地元の仏教会のお付き合いがあって、交流がある!とか、そんな

繋がりがある場合のみだと思います。特に、宗派を超えて勉強会を!となると、かなり熱心なお坊さん

のみでしょう。ある意味、異端です。

私が異端なのか?となるのですが、まぁ異端でしょうね(笑)

そもそも私もこの会に参加した背景には、誘われたから!なのです。主催する日蓮宗のお坊さんがお誘いく

ださったからなのです。

私が昔、お寺の経営について勉強する為に参加した「未来の住職塾」というお寺の経営塾があるのですが

そこを通じてのご縁で、知り合った方なのです。

以来、日蓮宗のお坊さんには、とてもお世話になっているのですが、その流れから、今回のような会に参加

させていただける機会を頂いたのです。

でも、皆さん、お互いに敬意を持てる方々ばかりなので、素敵です。とても面白い。

そんな勉強会も、なんだかんだ言って、いつも23時半くらいまで続きます。昨日も、そうでした。

この会は不定期で、主催者の方から、「そろそろやりますか!?」と連絡がきて、日程調整して行います。

だいたい2~3か月に一度くらいの頻度かな。