綺麗になった。

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こんにちは 副住です。
今年も残り数時間となりました。
ようやく、書斎の大掃除を3年ぶりに終えました。
しかし、連日大掃除に集中できず、次から次へと
違う業務を依頼され、なかなか進みませんでした。
今日の午前中は、参道の掃き掃除と、浄苑内のゴミ入れ
取り換え作業。
img_0828
毎回、ゴミ入れのゴミを集めると、この位の分量になります。
その後、午後からようやく書斎の大掃除に。
やっとの思いで、整理しました。
img_0831
3年ぶりなので、書類とかが積み重なっていた状態だったし、
本も増えたので、本棚の再整理もしました。
書斎の本棚は、備え付けのもので、奥行きがあるので、
前後に本を入れているのです。(後ろの本は見えなくなっちゃうんだけど)
img_0832
あと数年で、本棚も一杯になってしまうでしょうね。
もう数年したら、図書室を建てないといけません。
本は財産なので、捨てられません。
私の場合、特に専門書が多いので、特に大切にしています。
近年は、仕事などが忙しく、ゆっくりと研究ができずにいますが、
いずれお寺の活動が安定したら、晩年はゆっくりと研究して過ごしたいです。

大掃除

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こんにちは 副住です。
今日は30日。今年もあと2日。
そんな今日は、書斎の大掃除を再開しました。
でもダメ。全然終わらない。
3年ぶりの大掃除なので、資料の整理が膨大すぎ・・・。
朝からやってますが、明日も書斎の大掃除となりそうです。
ここ数日の雑務や所要で大掃除が滞ってたので、仕方ないですが。
明日も頑張ってやります!
でも綺麗にはなってるんですよ。

取りあえずの更新

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こんばんは 副住です。
連日お休みだったのに、全然斎場管理とか電話番とかで
全然休みにならない・・・
しかし、でも移動がないぶん、身体は楽なのですが。
さて、明日は鎌倉に行ってきます。
混んでなければいいな。
ここ数日書くことが多かったので、今日はタンパクにしておきましょう。

2016年を振り返って 副住職のお寺づくり

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こんにちは 副住です。
今年も残すところ、あと数日。
今日は、2年ほど前から元旦のブログを遡って、見てみました。
書いてあることが2015年の元旦は、西照寺の方向性を定める年に。
2016年は、組み立ての年に。
と、西照寺という組織の在り方を書いてありました。
私は大学生の頃から、お寺のあり方に妙な危機感を抱いていました。
このままだと、お寺も潰れていくだろうな。という感覚が20代の頃から
何となく感じていました。
しかし、何もできないまま、どうしていいのかわからず、30代半ばを迎えました。
そんな時、「未来の住職塾」というものがスタートすると知り、申し込みました。
「未来の住職塾」は、非営利組織の経営など、寺院運営に関する学びができる塾。
年間6回程度の連続講座。1回は1日中かけて学びます。
お寺という非営利団体を運営をしていく上で、どんなところを大切にするのか。
どんなお寺を目指していくのか。お寺に求められているものとは何か?
などなど、答えは自分が見つけていく。
ただし、どんな部分を明確にしていかなくてはいけないのか!を教えてくれる塾なわけです。
私が求めていたことだったので、即申し込み、6回の連続講座をもれなく受け、自宅で復習し
卒業後も、ずっと考えながら数年を過ごしてきました。
因みに、ここに通ったことからレンタル墓が生まれたのです。
ちょうど私が35歳くらいに塾に申し込んだと思うので、もう5年ほどたつのだろうと思います。6年かな!?
これまで5~6年間、ずっと西照寺というお寺の方向性や、活動について検討してきました。
簡単にいかないのですね。
西照寺の土台ですから、何世代も続くであろうお寺の土台ですから、相当考えました。
社会の雰囲気だったり、現代の思想的なことだったり、お寺が持つ強みだったり。
地域性だったり。(因みに、JCに入ったのは、地域性を知ろうと思って入ったのです)
そんなことを重ね合わせながら、西照寺って、どんなお寺であるべきなのだろう?と。
その過程で2015年の抱負が、西照寺の方向性を定めること。
2016年の抱負が、西照寺という全体の運営理念の組み立て。
そんな部分を完成させたいと思いながら、過ごしてきたのです。
2015年も2016年も、抱負はいいのですが、未完成のままでした。
しかし、2016年が終わろうとする今、ようやく言えることがあります。
それは、やっと、やっと、やっと出来上がりました。
西照寺の理念と活動の方向性。かっちりと完成させることができました。
この一年、2016年は、本当に苦しかった。個人的に本当に苦しい年でした。
苦労した年でした。時間もありませんでした。正直本当に老けました。白髪も増えました。
一応、お坊さんだけど、髪の毛あるんです。(髪の毛のことは、数日前のブログでアップしてます)
2016年は、多忙さにかまけ、流されるまま過ごしていくのではないかな!?と思いました。
でも、でも、でも、何とかやり続けたので、逃げなかったので、完成させることができたのだろうと思います。
後は、これを土台として、西照寺全体の組み立て作業に移ります。
私の当初の抱負からは、1年遅くなりましたね。
2017年は組み立ての年です。
今思うことは、土台がしっかりできたので、組み立ては比較的簡単です。
整えるだけでいいのですから。
あと数年かければ、西照寺の諸々の部分が明確に位置付けられることとなります。
HPも、これに併せて改良していきます。
2017年は組み立ての年、少しだけ見える部分に変化がでてくるかもしれません。

お寺あるある クリスマス編

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こんにちは 副住です。
そうでした。世間ではクリスマスなのですね。めでたい!!
今日は、お坊さんあるあるを綴ります。
他宗のお坊さんも、たぶん同じなのでしょうが、お寺にはサンタクロースは来ません。
そのかわり、仏様がプレゼントを持ってきてくれます。
私は京都の龍谷大学という大学に進学をしました。
理由は、龍谷大学は浄土真宗本願寺派の大学であり、
その大学には、浄土真宗の教え(教義)を学ぶ学科があるのです。
私は龍谷大学文学部真宗学科という学科に進学をしたのですが、
その学科は、全国各地のお寺の息子(お寺後継者)によって9割占められていました。
当然といえば、当然ですね。
だから、全国のお寺事情がわかるわけです。
これまでは、お寺の友達(特に同じ宗派の同級生)なんて出会ったことない状態だったので、
ある種の衝撃を受けると同時に、「お寺あるある」があふれている環境なのでした。
そんな「お寺あるある」を一つご紹介。
毎年、この時期になると、お坊さんはクリスマスなんかに負けない!と強がります。
世間に流されるな!と、その時ばかりにお坊さんのアイデンティティが顔をだします。
さらに、「まさかクリスマスなんかやってないよね!?」と同士から裏切りがでているんじゃないかと
疑心暗鬼に。
お坊さん後継者の集まりだからこそ、変な空気感が漂い、「パーティーとかしたことないし」
「ケーキなんか食べない」「チキンってなんだ?」とか言い出します。というか、言わざるを得ない。
でも、きっと心の中では、「クリスマスいいよな」「騒ぎたいな」とか思っているはずなのです。
その反動が、上記の「反クリスマス」となっているのだと思います。
そんな私はどうだったか。私はケーキも食べたし、プレゼントももらってました。
普通にしていました。
だからこそ、大学時代は衝撃でした。
全国の多くのお寺の後継者は、親御さんなどに 1、「うちはお寺だからクリスマスはないのよ」
2、「お寺だからサンタさんは来ないんだよ。プレゼントは花祭り(お釈迦様の誕生日。4月8日)にもらえるからね」
3、「うちはお寺だから、仏様がプレゼントをもってきてくれんだよ」
などなど説得されて育てられてきたのでした。
しかし、世間では盛り上がりをみせる、この一大イベント。
クリスマスがこないお寺で育てられたお寺の後継者は、同級生から「お寺ってクリスマスないから嫌だよね」と言われたり
サンタが来ないけど、花祭りにプレゼントがもらえるお寺の後継者は、タイミング的に同級生と喜びを分かち合えない苦しみを
プレゼントがサンタではなく、仏様から届くといわれて育ったお寺の後継者は、なんか自分だけ違う・・・と思ってみたり
各自、それぞれ世間と共有できない部分があって、それぞれに苦い思い出となって、
そしてそれがある意味でお坊さんとしてのアイデンティティとなって形成されてきたのです。
そんな連中が大学生の時に一同に集うとどうなるか!?
「反クリスマス」として表出されるわけです。
その空気感は、結構すごい。「お前、わかってるよな!」というような暗黙の空気感。
もし、「うちは普通にクリスマスあったよ」などと言おうものなら、「お前のところはお寺じゃない!」
「お寺やめたようがいい!」「キリスト教に変わった方がいい」と言われるでしょうね。
もちろん、いじめとかにはなりませんよ。その日というか、その1週間くらいは、そんな扱いを受けるでしょうけど。
西照寺の住職の考えは、クリスマスはキリストが誕生されたことを喜んでいるイベントなんだから、
宗派は違うけど、偉大な方が生まれて良かったね。とキリスト教の信者さんと一緒に喜ぶことが、どうしていけない。
ことさら、そんな気持ちもあまりなく、ただのイベント的に過ごすクリスマスだったら、尚のこと、宗派とか関係ないんじゃない。
という考え方でした。
それはそうだな!と私も今でこそ同感です。
仏教徒でない人が、花祭りを喜んでくれたら嬉しいし、親鸞聖人の誕生日である降誕会(ゴウタンエ)5月21日を宗派が異なる方が
喜んでくれたら、それはとても嬉しいことです。尊いですよね。
もちろん、世界三大宗教として、認められていることは世間的にも大きいこと。
それぞれの大事な方の喜びごとを大切にできる寛大さがあれば嬉しいですね。
それを宗派が違うから、祝わない。とか意気地になることは、むしろ、ちっちゃい!
この時期ばかりは、若いお坊さんも器がちっちゃくなるのです。
いいんです。お坊さんも悩みや苦悩を抱えてるんです。
気持ちがちっちゃくなってもいいんです。
それがクリスマス。
もう私みたいなおっさんになったら、イベントとしてのクリスマスとかどうでもいいようになります。
ただ、めでたいなという気持ちは、ちょっとあります。
もちろん、これは色々な考え方の人がおられるので、一概には言えませんが。
若いからこその、プライドもあるし、おごりもあります。
若いからこその反発心もあります。
お寺としてのプライドもあります。
それぞれを如何に心から納得させていくか。ここが一番大事ですね。
しかし、それぞれのお寺さんが、クリスマスないんだよ!という育て方は、大事なのかもしれませんね。
だって、クリスマスにこそ、お坊さんとしてのアイデンティティが強烈に確認できるんだから。
結論としては、それぞれ(クリスマスあるお寺とないお寺)あっていいのだと思います。
「お坊さんあるある」あまり知らない、ゆるーい内部事情だと思います。

お疲れ様でした

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こんにちは 副住です。
昨日は祝日でしたが、比企青年会議所の会館大掃除を朝からしました。
その後、15時より2016年度最後の理事会、
そして夜(18時から)は最後の懇親会が行われました。
まさに1日JCでした。
そして、私は昨日をもって、JC最後の公的活動を終えました。
2年間でしたが、JCにお世話になりました。特にこの1年は大変でした。
あと、数日ありますが、2016年終了と同時に、私はOBとなります。
来年からは、JCから解放される・・・はずでしたが、外部監事として居残ることに(-_-;)。
きっと求められているのは、理事会などを通じて、面倒な意見をすること。
さらに、メンバーの気をひきしめさせること。
ちょっと嫌な役回りでしょう。そのつもりで、嫌われ者となってみようと思います。
JCがより良い団体となるよう、何かを残るつもりで来年も関わります。

続き

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こんにちは。副住です。
昨日の続き。
親鸞聖人は、比叡山で20年も厳しい修行をされ、
自分にとらわれない境地(さとりの境地)を目指したのです。
これが伝えるのが難しいのですが、つまり、私という主体から解放される。
もっと言うと、私とあなたとの間に壁がなくなる。違いがなくなる。
言葉を変えれば、全てと同化する。
そんな状態でしょうか。それが「さとり」のような感じだと思います。
しかし、親鸞聖人は20年修行しようが、私から解放されることがなかったわけです。
生きていれば当然だろ!と思われるかもしれませんが、無理なことなのです。
ですから、さとりがひらけないわけです。
私から解放されないということは、私という枠組みにとらわれてしまうことに
なります。
だから、色々な物事を判断するとき、私を基準に判断してしまうようになります。
例えば、何か食べ物を食べると、「おいしい」だの「まずい」だの、私が判断してますね。
他の誰かが判断するのではなく、私が決めているのです。
これが私という判断基準です。
でも、この判断基準である「私」は、果たして正しいのでしょうか?
実は、正しくないのです。むしろ「私」とは、間違いだらけなのです。
本来、食べ物に「おいしい」「まずい」など、優劣をつけること事態が自分勝手なことです。
例え「まずい」ものであったとしても、食べるものが無くなって、生きるか死ぬかの瀬戸際
で食べたら、「おいしい」と感じることでしょう。
本来は、食べ物はどのようなものであっても、貴重なはずです。
そこに、「おいしい」「まずい」だの価値判断しようとする「私」こそ、大きな間違いです。
しかし、そのことにさえ気づけない。情けないものなのです。
ここら辺は、長くなるので省略します。(詳しく知りたい方は、西照寺の法話会にどうぞ)
親鸞聖人は、比叡山での修行を通じ、「私」の愚かさに気づかれた方なのです。
昨日のブログで紹介した「戒」、不邪見戒(間違った見方をしない)ということが、
親鸞聖人は心の底からできなかった。
「私」=不邪見ということだと思います。
どうしても、色んなものを「私」という色眼鏡で、価値判断してしまう心がある。
やめようと思っても、無意識のうちに、心が価値判断をしている。
そう実感するようになり、「戒」さえ守れない「私」であったと猛烈に内省していかれた人
が親鸞聖人なのです。つまり、「戒」さえ守れない愚かな「私」(開き直りではなく、懺悔と
いうことです)となってしまうのです。
親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗では、「戒」を持てるような我が身ではありません。
ということから始まるので、剃髪することに拘りがないのです。
普通の人と一緒。妻帯も肉食もします。そもそも私が努力しても、私くらい愚かな者の力で
「さとり」に至ることができない。私の行く場所は最初から地獄と決まっている!
これが浄土真宗です。
ただし、そんな愚かな私を憐れんで、地獄におとさないよ!必ず浄土に連れていくよ!と
力になってくださる仏様がおられるのです。それが阿弥陀仏。
阿弥陀仏は、愚かな私を浄土へ連れて行ってくださる仏様なのです。
ここら辺は、宗教経験が大切となってくる部分ですから、頭で考えても理解できない部分。
都合のいい仏様だな!と思われるかもしれませんが、そうではないのです。
ああ、二日続けて迷宮入りしてしまいました。
気軽な散髪の話でしたが、お坊さんは剃髪だろ!との皆さんのイメージがあるだろうと思
い、説明しようと思ったら、大変なこととなった。

戒律 髪の毛があるお坊さん なんで?

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おはようございます。副住です。
今年は書斎の大掃除を3年ぶりに行おうと、ゆっくり進めています。
昨日は、本棚の掃除を行いました。
ここ数年、本が棚に入りきらず、重ね置きをしてました。
それを昨日綺麗に収納。
そろそろ、本棚(備え付け)の空きスペースも限界。
これ以上増えると、綺麗に入りきれなくなります・・・
さてさて、今日は久しぶりに散髪をしてきます。
浄土真宗という宗派では、僧侶は剃髪しなくても、してもどちらでも良いのです。
私は普通に髪の毛がある僧侶。
宗祖である親鸞聖人は、剃髪されていたようですが。
理由は、教えにあります。
そもそも、仏教では「さとり」を目指す為に、生活上で
「さとり」の弊害となりやすい行為を禁止してます。
それが戒律というルール。
因みに、戒律は、「戒」と「律」にわかれます。
「律」というのは、お坊さんの集団に対するルール。
いわゆる出家をして集まった者同士が、生活をしていく上のルール。
これが「律」です。
そして、「戒」は、仏教徒(在家や出家を問わず)が、「さとり」
を目指す上で、弊害となる行為をやらないよう心掛けるルールのこと。
例えば、
不殺生戒(生き物を殺さないようにする)
不飲酒戒(お酒は飲みません)
不邪淫戒(みだらな性行為をしません)
不邪見戒(自己中心の誤った見方をしません)
あるいは、お化粧や装飾などをして、飾りません。みたいなものもあります。
立場によって、「戒」は色々定められていました。
上記は、代表的なものです。
よく戒名といわれますが、これは生前「戒」を守って「さとり」を目指します!
という方の名前のこと。だから本当は葬儀の時につけるよりも、生きている時に
つけていると、意味深いですね。
葬儀の時につける意味は、死後、これからは戒を守って「さとり」を目指していきます!
という意味ですね。
さてさて、髪の毛は、おそらく「お化粧や装飾などをして、飾りません」に該当する
ものだと思います。髪の毛が「飾り物」に考えられるのだと思います。
特に髪型とか気にする行為が、「飾る」につながるのでしょう。
剃髪すれば、髪型とかないですしね。
さて、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人は「戒」が守れない私であったと深い内省をされた方です。
因みに、仏教では、人間の行為を3つにわけます。因みに行為のことを「業」といいます。専門用語ですね。
3つとは、身・口・意です。仏教の専門用語では「三業」といわれます。
身業とは、身体で行う行為のこと。
口業とは、口で行う行為のこと(つまり「しゃべる」ということ)。
意業とは、心で思う行為のこと。
中でも、仏教は「意業」を一番大切な行為と考えます。
つまり、「意業」の行為が、「身業」や「口業」へと展開すると考えます。
なので、一番重要なのが、「意業」なのです。
さてさて、そのような基本的考え方があって、「戒」を考えてください。
「戒」は、行為の禁止というか、行為の抑制みたいなものです。
ただし、仏教では行為の一番重要なことは、「意業」です。
表面的な行いだけで行為を禁止しても、本当の意味になりません。
浄土真宗の宗祖、親鸞聖人は素直な方で、純粋な方だったのでしょうね。
表面的な行為をしないことはできますが、「意業」で思う心の行為が
できなかったようです。つまり、不邪見戒(自己中心の見方をしません)
が根本的に無理だと感じられたようなのです。(←ここについては、後日綴ります)
その結果 俺、「戒」守れない。と思ってしまったようです。
因みに、親鸞聖人は比叡山で20年、厳しい修行をされています。
その中で、諸々「戒」とは違う行為を、つまりは「心」で思ってしまう
自身の在り方に気づいた方で、素直にそのことを告白された方なのです。
あ~、、、なんだか、散髪を説明するのに、思いがけず長いブログとなってしまいました。
もう疲れたので、続きは後日(明日か明後日)にしときます。

鎌倉のおじさん

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こんにちは 副住です。
今年は暖かい冬ですね。今のところ。
とても助かります。
例年、この時期には、上下ヒートテックを装備しますが、
今年は上だけヒートテックです。
暖かいからか、風邪もひかないで、ここまでこれました。
昨日から、気持ち的に楽になってます。
因みに、年末また鎌倉に予定ができたので、行ってくることになりました。
思い返せば、今年だけで、鎌倉に7回ほど行ってます。
圏央道ができたから、全然苦になりません。
1時間半あれば確実に着くし、混むのは、鎌倉市街地だけだし。
実は、鎌倉に通っているのは、私の母方のいとこおじさんのご自宅があるから。
このおじさん、驚くほど博学で、色々と教えてもらっているのです。
いとこおじさんなので、これまで私は接点あまりなかったのです。
しかし、たまたま私が気になることがあって、親戚を通じ連絡を取ることに。
そしたら、話題があってしまい、年齢はずいぶん違うのに、意気投合してしまいました。
会話もあうので、話しているだけで楽しいし、何より勉強になるのです(一体何者?と思う位の人)。
いろんなヒントをもらえるし、考え方や人生の幅が拡がりました。
人生は「出会い」によって左右される、みたいなこと聞いたことがありますが、
まさにそれに該当するおじさんなのです。
今度、写真でも撮ってこよう。

3年ぶり

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おはようございます。副住です。
昨日で、何とか今年の遠方外出の予定が全て終わりました。
あとは、西照寺と地元の予定だけです。何とか元気に乗り切れました。
今日は西照寺の雑務と夜にJCの会議があります。
自坊に居れる日だし、しかも雑務は自分の時間でできるので、気が抜けてます。
こういう時を待っていたのです。至福の時。(笑)
今年の残りの日々で、大掃除(3年ぶり)をします。
3年ぶりに仕事に追われない年末とお正月となるので、すごいワクワクしてるのです。
(上記のような理由から、今年の年末以降に、予定を入れなかったわけです✌)
因みに、昨年はJCの総務広報委員長となったから、新年度を迎えるにあたって猛烈に
作業があって、そちらに年末とお正月の時間をもっていかれました。
一昨年は、築地本願寺での仕事で、アンケート調査の分析を行った為、
年末とお正月の時間をもっていかれました。
なので、過去2年間、私は年末とお正月気分を味わってない感覚なのです。
今年は違うよ。
後は、体調を崩して静養とならないように、気を付けたいと思います。