おはようございます。住職です。
今日は久々の雨ですね。予報が当たりました。
私は今日、川越少年刑務所に行ってきます。一般教誨があるからです。
一般教誨というのは、道徳的な話をする場です。ですから特定の宗派の教えを話してはいけないわけです。
一般教誨で求められることは、誰にでも通じるような話ということだと思います。一般的な話。
ですから、特定の宗派の教えなどのような偏りがあってはダメということでしょうね。だから道徳的な話を
求められているのだろうと、私は理解しています。ですから、話す時の服装も、スーツです。お坊さんの格
好はNG。今日は一般教誨の中でも、出所前指導といって、今後数週間で刑務所から出所する人たち
が受けなければならないものです。私はそこで、1時間お話をさせていただきます。出所する被収容者の
皆が必ず受けなければならないものなので、個別的な宗教の教えだとダメなわけです。一般的な道徳の話で
ないといけない理由がここにあります。
このように書くと、何となく判った気になるのですが、実は宗教と道徳の境界線ってとても難しいと私は思
っています。私個人で感じていることは、道徳の根源には、宗教があると思っています。
道徳というわけですからね。道なわけでしょう。剣道・柔道・華道・茶道・弓道などなど、道がついて
ますね。道というのは、中国哲学でTAO(タオ)と表現され、真理を意味する言葉です。根源的なもの
を意味するのですね。ですから、剣道であれば、剣の分野で真理(根源的なもの)を追究するのです。
それらを突き詰めていくと、最終的に「生き方」が培われてくることとなります。つまり、剣道であれ
ば、剣の道という真理に生きるのです。ですから生き方とも関係してきますね。
どの道も、深く追求し極まってくると、おそらく真理は同じような部分に包摂されていくことでしょう。
だから真理と言われるんですが。
仏教でも同じように道があります。それが仏道。仏様となっていける道。生き方ですね。
東洋思想を考える時、「道」は結構重要なキーワードなのです。
そう考えると、道徳の深い部分を形成するのは真理ということです。徳とは、生き方からにじみ出てくる
風味みたいな、アバウトで表現し辛いものですね。良く、徳が高いなどと表現されることもありますが。
ですから道徳は、真理を説く宗教と深く関係していると理解いただけるのではなかろうか?と思います。
という訳で道徳の下地を為す宗教と、道徳の境界線って、実は簡単には分けられないのです。繋がっている
から。私の考えでは、宗教の延長線上に道徳がでてくるようなイメージですね。繋がっている。
だから、ここからは宗教で、ここからが道徳!ときっちり分けることができないわけです。
しかし、一般教誨で求められているのは、道徳なのです。ここら辺が難しい。
ただ、私も一応、宗教の表面的な部分の話をして、道徳的な感じを醸し出すよう努力してますが、
時に、鋭い質問などがあがることがあります。その時は、表面的な誤魔化しがきかないので、宗教的に
グッと入っていきますが、話を監視している監視員さん(刑務所の職員さん)から何もいわれないので、気
にしないでやってます。
きっと監視員さんが聞いていて、偏っていなぁと思う話があれば、後で何か言われるのでしょうね。
私はこれまで何も言われたことないけど。