日記

非戦平和って!?

おはようございます。住職です。

今日は私の母親が、コロナワクチン3回目の摂取をしに行きました。

前住職の父は、すでに3回目を終えました。

コロナも相変わらずおさまらないですし、そうこうしているとロシアがウクライナを侵攻するし

世界的に深刻な問題が表出していますね。

ドイツやフランスは軍事費を増強していると言われ、やや戦時モード的な気配にみえなくもありません。

平成の時代は、安定していたように思えましたが、令和になって俄然世界のバランスが崩れてきました。

換言すれば、安定期を抜け出して、新しい時代への移行期に突入したということでしょうね。

そのようなタイミングで、45歳というそれなりの年齢を迎えている自分に、これって良いことなのか?悪

いことなのか?と自問してしまうことがあります。

戦争に巻き込まれていく可能性を考えれば、悪いことです。そんなの嫌です。戦争なんてない方が良いに決

まってます。まさにウクライナの事態は、明日は我が身。第三次世界大戦など絶対に嫌です。

ウクライナの件で考えてみれば、ウクライナ側からすれば戦争は嫌、しかし相手のロシアは聞く耳がなく

て、一方的に主権国に干渉してきて、全部ロシアの言う事聞け! 聞かなければ、攻撃するぞ!と攻めてく

るわけです。

戦争は嫌だし、避けたいけれど、相手がむちゃくちゃだった時、どんなに避けたい戦争でも、巻き込まれて

いかざるを得ないのかもしれません。私は仏教徒であり、本願寺派の僧侶でもありますが、これに

関していえば、個人的な意見として、戦争は絶対ダメ!だとはもちろん思っていますが、相手が戦争を望ん

できたら、止めようがないように思ってしまうのです。こっちが戦争ダメ!と言っても、相手が戦争も仕方

ないんだ!と聞く耳持たないで攻め込んでくれば、即座降伏!とならないかもしれません。抵抗してしまう

気持も理解ができるのです。これが人間としての感情を持つ生き物のどうしようもない有様だと思って

しまいます。仏教でいえば、まさに有情ですね。

戦争はダメだと思っていても、攻め込まれたら自分を守ろうとしてしまうのです。抵抗してしまう。

仏教でも、非戦平和と言いますが、私もそうあるべきだと思っていますが、現実にウクライナの件を

見てしまうと、非戦平和が綺麗ごとのようにも思えてしまう自分もいるのです。

ウクライナの件を受けて、改めて非戦平和とは何なのか?綺麗ごとではない、非戦平和って

どういうことなんだろう? それを訴えてきたはずの仏教は、ウクライナの件が起こった今、どのような

行動を起こして解決へと導いてくれるのだろう?と思ってしまうのです。

平和ボケしている時に、非戦平和などと口先だけで言ってみても、何の説得力もないですね。

戦争が起こってしまった今だからこそ、どういった行動で非戦平和を訴えるのだろう?と強く思うのです。

仏教の立場だと、非戦平和というのだから、侵攻されてきても戦わず、無条件降伏する!との立場だと思う

のです。これはこれで、ある種腹が座っていれば筋は通ります。

しかし、それって可能なのでしょうか? まさに日本の仏教界はそれが問われているように思えます。