おはようございます。住職です。
今日は最近妙に腹落ちしてきたというのか、大事なんだなぁと思えるというか、意識をするようになった
ことを綴ってみようと思います。
お坊さんをやっていると、ご法事の際など、事あることに、仏教のお話をする機会があります。
私の場合、大学時代以降に仏教の勉強をし、自分自身が本心から仏教に納得できるのか?をベースに
教えを学んできました。つまり、我が毎として、教えを学んでみたのです。
かなり苦労しましたが、とある出来事を通じて、仏教が心から頷けてしまったのです。
もちろん、仏教には沢山の経典がありますし、私は全て読んでいるわけではありません。
しかし、核となる部分については、本当にその通りだ!と思わされてしまったのです。
以来、なるべく自分なりの言葉で、仏教のお話をしてきました。
例えば、仏教は諸行無常と説きます。常なるものは何もない。いわゆる、物事はすべてが変化し続けている
との教えです。頭で考えれば、そうだよね!と理解できるのですが、私達の心では、そのことが全く理解で
きていないのです。従って、以下のようなことが度々起こります。
スケジュールをたてる。ダラダラ過ごしてしまう。貯金をする。感謝ではなく文句を言ったりする。等々。
上記は当たり前にやってしまう私たちの行為です。
でも、この世界の真実は、諸行無常。いわゆる、常なるものは何もない=一瞬先は保証されていない。
とのものです。それなのに、私達の心はそのことがわからないので、一瞬先も今と同じように続くのだ!と
錯覚を起こしてしまうのです。
私は僧侶として、幾度も事故や急病で亡くなった方をみてきました。
ご遺族の方々は当然受け止めきれません。何故だ? どうして? と言われます。
当然ですよね。 もし同じような境遇を迎えたとしたら、私もそう思うはずです。
これが、諸行無常が心からわからない。という私達の心の闇なのです。
だから、明日も明後日も、今と同じように続いていく!と思っているのが私達。
続いていくのだから、スケジュールもたてるし、貯金もします。
大切な家族であっても、続いていくからこそ、感謝よりも文句が先に口をついてしまう。
明日も明後日もくるのだから、今はダラダラしたっていいよね!となってしまう。
しかし、もし明日亡くなるとわかったら、どうでしょう?
おそらく、ダラダラするような時間はないでしょう。文句ではなく、今までありがとう!と感謝の言葉が
でてくるでしょう。
諸行無常という教えだけで、私達の普段の生活を振り返って、反省させられる部分がみえてきます。
例えば、私は上記のような話をしたりします。当然ながら、話している私自身だってできていないのです。
もちろん、それも言います。しかし、こんな話をさせていただきながら、実は自分に言い聞かせている
側面もあるのです。
私は上記の様な話しを何度もしてきました。そうすると、私の心の中で少しづつ、その教えそのものが
蓄積されてくるのでしょうね。ちょっとづつちょっとづつ。
おそらく、そんな蓄積が原因なんだろうと思うのですが、私は最近、以下の様なことを思うこととなってき
たのです。
諸行無常ということは、毎日が当たり前ではない。一瞬一瞬が貴重なんだ! ということは、今を一生懸命
生きることこそ、実は大事なんだ。(←ここまでは今までも思っていたこと)
となると、一つ一つの行為をもっと丁寧にすべきなんじゃないかな!?と。
これまでの私は、行動を丁寧に!などと全く思ったことがなかったのです。
だから、最近自分がそんな事を思うなんて、妙に不思議なんですね。自分の性格上、そんな事は思わない。
つまり、そんな私を、こんな風に思わせるご縁にあったということなんです。
もっと言うと、そんな事を思わない私だったのに、そんな私をも変えていく「何か」があるということなの
でしょうね。
しかし、よくよく考えてみると、一つ一つの行為を丁寧に!との姿勢は、現代社会にこそ、大きく求められ
ていそうな気がするのです。でも、忙しなさに追われて、雑になってしまうのが現代だし、丁寧にやろうと
するには、心から丁寧にしなきゃ!と納得できるメンタルがないと、なかなかできないことだとも思えて
きます。そういう意味では、私はご縁にあうことができたことで、ようやくそんな気持ちになれてきたんだ
なぁと思わされているのです。