こんにちは。副住です。
昨日の続き。
親鸞聖人は、比叡山で20年も厳しい修行をされ、
自分にとらわれない境地(さとりの境地)を目指したのです。
これが伝えるのが難しいのですが、つまり、私という主体から解放される。
もっと言うと、私とあなたとの間に壁がなくなる。違いがなくなる。
言葉を変えれば、全てと同化する。
そんな状態でしょうか。それが「さとり」のような感じだと思います。
しかし、親鸞聖人は20年修行しようが、私から解放されることがなかったわけです。
生きていれば当然だろ!と思われるかもしれませんが、無理なことなのです。
ですから、さとりがひらけないわけです。
私から解放されないということは、私という枠組みにとらわれてしまうことに
なります。
だから、色々な物事を判断するとき、私を基準に判断してしまうようになります。
例えば、何か食べ物を食べると、「おいしい」だの「まずい」だの、私が判断してますね。
他の誰かが判断するのではなく、私が決めているのです。
これが私という判断基準です。
でも、この判断基準である「私」は、果たして正しいのでしょうか?
実は、正しくないのです。むしろ「私」とは、間違いだらけなのです。
本来、食べ物に「おいしい」「まずい」など、優劣をつけること事態が自分勝手なことです。
例え「まずい」ものであったとしても、食べるものが無くなって、生きるか死ぬかの瀬戸際
で食べたら、「おいしい」と感じることでしょう。
本来は、食べ物はどのようなものであっても、貴重なはずです。
そこに、「おいしい」「まずい」だの価値判断しようとする「私」こそ、大きな間違いです。
しかし、そのことにさえ気づけない。情けないものなのです。
ここら辺は、長くなるので省略します。(詳しく知りたい方は、西照寺の法話会にどうぞ)
親鸞聖人は、比叡山での修行を通じ、「私」の愚かさに気づかれた方なのです。
昨日のブログで紹介した「戒」、不邪見戒(間違った見方をしない)ということが、
親鸞聖人は心の底からできなかった。
「私」=不邪見ということだと思います。
どうしても、色んなものを「私」という色眼鏡で、価値判断してしまう心がある。
やめようと思っても、無意識のうちに、心が価値判断をしている。
そう実感するようになり、「戒」さえ守れない「私」であったと猛烈に内省していかれた人
が親鸞聖人なのです。つまり、「戒」さえ守れない愚かな「私」(開き直りではなく、懺悔と
いうことです)となってしまうのです。
親鸞聖人を宗祖とする浄土真宗では、「戒」を持てるような我が身ではありません。
ということから始まるので、剃髪することに拘りがないのです。
普通の人と一緒。妻帯も肉食もします。そもそも私が努力しても、私くらい愚かな者の力で
「さとり」に至ることができない。私の行く場所は最初から地獄と決まっている!
これが浄土真宗です。
ただし、そんな愚かな私を憐れんで、地獄におとさないよ!必ず浄土に連れていくよ!と
力になってくださる仏様がおられるのです。それが阿弥陀仏。
阿弥陀仏は、愚かな私を浄土へ連れて行ってくださる仏様なのです。
ここら辺は、宗教経験が大切となってくる部分ですから、頭で考えても理解できない部分。
都合のいい仏様だな!と思われるかもしれませんが、そうではないのです。
ああ、二日続けて迷宮入りしてしまいました。
気軽な散髪の話でしたが、お坊さんは剃髪だろ!との皆さんのイメージがあるだろうと思
い、説明しようと思ったら、大変なこととなった。