こんにちは 住職です。
昨日は、妻と歩きに出かけたのですが、あいにくの小雨が。
早朝、お日様が出ていたように思ったのですが、雨雲が出てきてしまい、家を出た9時前頃には
どんより天気に。気温は低かったので、妻が歩くには適した温度だったのに。
ときがわ町に行く道中に雨が降ってきたのです。
そこで急遽、当初の目的であった「山登り」を中止し、ときがわ町の慈光寺近辺を歩くことに。
ときがわ町の慈光寺というのは、歴史的なお寺であって、昔は吾妻鏡(鎌倉時代の作)にもその名が出てく
る、当時は全国的な知名度があったようなお寺です。確か、「西の延暦寺」(比叡山)と「東の慈光寺」と
対比されるようなお寺だったみたいです。
因みに、慈光寺のあるときがわ町は、東松山市の近くにあります。車で20~30分ほどの距離です。
東松山市を中心に、その近隣自治体を包括して、今でも比企地域と言われているのです。
その比企地域の中心である東松山市。市内にある西照寺の近隣(2~3キロあたり)は、鎌倉幕府をひら
いた源頼朝の乳母である「比企の尼」の生地であったと言われています。
頼朝が鎌倉に幕府をひらいた時、比企一族は比企地域から鎌倉へと移っていきました。
そんな関係で、頼朝はこの比企地域を大事にしてくれたようです。
その比企地域にあった慈光寺は、当時は大きな勢力をもっていたようで、おそらく慈光寺の半径30キロ圏
が、慈光寺の境内地だったそうです。
頼朝の庇護もあったのでしょうが、当時は大きな勢力を誇ったようで、「東の慈光寺」と吾妻鏡にもでて
くるのです。これは私の推察ですが、同じ比企地域にある小川町は、和紙で有名な地域です。
ときがわ町と小川町は隣接していおり、10キロ圏内。
お寺ではお経が大事になります。お経は紙に書きます。当時、紙は高級で貴重品。手に入らないものでした
。当時、大きな勢力をもっていた慈光寺では、全国から僧侶が来ていた可能性もあるでしょう。
そこで必需品となるものは紙です。写経するでしょうから。だから小川の和紙は、きっと慈光寺に奉納され
ていたのではないだろうか?と私は推察しています。逆に言えば、紙の生産が近隣でできるからこそ、
慈光寺は栄えていたのかもしれません。
残念ながら、頼朝の乳母の生地ということで、庇護されていたであろう比企地域ですが、
比企一族が北条家に夜襲され滅びてしまったことで、この地域の栄華は終わりを迎えます。
今では、都心から近い里山地域となっています。
慈光寺は残っていますが、当時と比べれば当然ながらすっかり弱体化しています。
そもそも、今の慈光寺は、そんなすごいお寺だったんだ!と知らない人ばかりでしょう。
因みに、慈光寺には国宝や重要文化財もあるのです。確か、源頼朝の書状だったりがあります。
そんな慈光寺は小高い山の上にあります。
車を山の下側に止めて、小雨の中、傘をさして妻と歩いて登ってきました。
舗装された登坂を2キロ進んでいくと慈光寺があります。
慈光寺本堂の入口は、こんな感じです。
天台宗なのですね。そりゃそうですよね。西の延暦寺と対で語られてたのですから。
慈光寺の本堂よりも上の方に観音堂があります。そこを階段で110段登ってみました。
立派な観音堂がありました。