日記

「③日本的美意識」幽玄②

おはようございます。住職です。

因みに、科学力への過信について、少し綴りたいと思います。

もう随分前になりますが、あるお寺様で歎異抄の勉強会を開催したいという事で、講師をしなさい!

と私に依頼がありました。

毎月ではなかったですが、年間数回開催していたと思います。

聴きにきていた方も、それなりに固定されていたのですが、そのお寺のご門徒さんを中心に、歎異抄の勉強

会の情報を知って、参加しに来てくださった方もおられました。

勉強会では、私がお話をさせていただきながら、質疑応答の時間も設けておりました。

そんなある回の質疑応答の時、ご高齢の方で毎回ご参加くださる男性から以下のような事を言われました。

「私は〇〇(←忘れてしまいました)を作っているのですが、神の仕業としかいいようがないと思う事象

があります。それこそ、突然変異です。

同じ条件下で作られているのだから、同じ物ができるはずなのに、時に例外ができてしまう事がある。

科学で説明がつかないような事を目の当たりにする時、私は神の仕業だと思うしかないのです。

先生(私が講師なので、私のこと)は、そこら辺はどのようにお考えなのですか?」とのご質問でした。

私は、まさに科学万能主義!だと思いました。確かに、ご質問者の言っておられることは理解できます。

しかし、同時に「同じ条件下」というのは、人間が考えられる範囲内での「同じ条件下」と、何故思えない

のだろうか?と思ってしまったのです。

現代人の科学を信頼しすぎる視点に、ある種の盲目さを感じてしまったわけです。

もちろん、質問者の方が悪いわけではありません。現代の風潮がそうなのだろうと思うのです。

科学こそ間違いないと信頼し過ぎる環境こそが危ういと言っているのです。

まず、「同じ条件下」と言いますが、全てが「同じ条件下」という事は、あり得ません。

科学で説明される部分は、「原因が同じであれば、結果も同じになる」との、この世界のルールを解明して

のでしょう。

それはその通りです。

それが因果関係です。

ただし、これは人間レベルで「同じ」と言っているにすぎません。

人間レベルには「同じ」に見えても、細かくみていけば、必ず違いは見えてきます。

全く同一のものなど、世界にはあり得ません。

なぜ同一にならないか?と言えば、縁が違うからです。

質問者の「同じ条件下」との考え方の中には、「縁」が含まれていないのです。

正しい因果関係とは、因縁果です。

原因と縁とが折り重なって、結果に至るのです。

「縁」というものは、科学的に解き明かすことができるような小さな分野ではありません。

例えば、どうして「私」がこの世界に、この時代に、この国に誕生したのでしょうか? 

私が誕生した事実と原因は科学でも説明できるでしょう。

両親が交尾をしたからですね。そして、10月10日、お母さんが出産するまで大事にしてくれたのです。

しかし、私がこの世界に誕生するようになった縁を考えてみると、両親が関係を持つようになった経緯や、

その前の世代の経緯、さらにその前の世代のこと、ご先祖全般、もっと広く考えれば、先祖を結び付けた恩

人との出会いなど、果てしなく繋がってしまい、とても人間が考えられる範囲のレベルではなくなっていき

ます。

「同じ条件下」と簡単に言えるのは、人間として考えられる小さなレベルでの「同じ条件下」であって、人

智が及ばない「縁」については、考えられないのです。

だから、突然変異というものを考えた際、科学の力でも説明ができない「縁」が大きく違ったから!

としか言えないのです。

それが「神の仕業」と言うのであれば、そうなのかもしれませんが、私たち仏教徒は、それを「仏様」と呼

んでいます。

つまり、それこそが「人間が考えることができる範囲を超越した奥深さ」そのものかもしれません。

それが美意識という意味で語られると「幽玄」と表現されるものかもしれません。