こんにちは 住職です。
もう9月ですね。昨日から9月。私の誕生月でもあります。
学生時代は、学年が4月~3月までとなるので、9月はちょうど真ん中となります。
学生だった頃を思い出すと、今頃は夏休を終え学校が始まるのが、本当に嫌で嫌で。
私は勉強嫌いだったし、小中とも成績は学年最下位レベル。
そんな私には、休みこそ、自分が楽しめる時間でした。宿題も忘れ遊んでばかりいました。
そもそも学校が休みなのに、宿題がある!というのはオカシイ!と本気で思っていました。
小学生の頃は、特に高学年になると、本当にひどくて、夏休みが終わって学校で宿題提出を求められ
そこから宿題を始める!という始末。
もちろん、最初の授業で宿題提出なんてできません。やってないんだから。
最初の授業で、周りのみんなが宿題提出している姿を見て、ヤバイ!と思います。
そこから宿題に手を付け始めるのです。
しかも、夏休みには宿題が沢山でていて、それらが一気に提出を求められるわけなので、
当然、間に合うわけがないのです。
これは、言わなくてもいいやつですが、私は滅茶苦茶ですが、とりあえず書いて提出!という、
方法を行っていました。あの頃は、提出できればいいんだ!と、目的が宿題の提出自体にあったのです。
(全くの見当違いなので、良い子の皆は、絶対真似しないでください。後悔することとなるから)
そんな滅茶苦茶なタイプだったので、日本の環境は私には合いませんでした。
日本は、決まったルールに則って、誰も疑問を抱いてはいけないような雰囲気。宿題は、当然!
夏休なのに、宿題があるっておかしくないですか?と言っても、誰も聞いてくれない。
宿題は当たり前! 夏休みって言うのに、算数・国語・理科・社会の課題は出される。
一体、何が休みなんだ!? 休みってなんだ? と思いますよね。
休みっていうのは、学校に行ってては出来ない事をやってみなさい!との事だろうと思ってました。
私はお寺に育ったので、お盆もあるし、家族旅行などはできなかったし、なかなか連れて行ってもらえない
環境でしたが、だからこそ、自分の好きなように遊び続けていました。特に自然の中で遊びました。
最高でした。
しかし、夏休みが終わり、学校が始まると一気に現実に引き戻されます。
その代表格が、宿題提出。宿題は、最初の授業で「先生、忘れました!」と言っても、次の授業までに
持って来なさい!と言われ続けるのです。逃げられない。提出しないと、提出するまで求められる。
私は日本の環境が窮屈でしょうがなかったのです。
それを自覚したのが、高校生の頃でした。カナダに1か月ほど、ホームステイをし、アメリカにも行きまし
た。驚きました。あの規格外の食事、自由な雰囲気。異なる民族同士が暮らす国。
素晴らしい!と感じました。英語ができなくても、身振り手振りで通じるところ。
お互い意見が異なって、それを言い合いながら、議論する文化。
私には、そっちが合っていたように思えたのです。
残念ながら、私はお寺を継ぐ!と決まったレールに乗せられていたので、外国に留学したい!などとは
思わなかったのですが、お寺を継ぐことが決まってなければ、外国に行ってみたかったかもしれません。
そんな私なのですが、最近は、日本の高度な文化にも理解が追い付き、なるほど日本には、そんな素晴らし
さがあったのか!と気付くこととなりました。
日本には、素晴らしい文化があるのです。ただし、残念ながら、今はそれが崩壊してきているし、
戦後のアメリカ化によって、ずいぶん良い部分が崩壊してきています。
なので、決まったルールが大事なんだ!との納得いく答えを誰も教えてくれないのです。
むしろ、これは以前から決まっている事なんだから、そうなんだ!で終わってしまう。
これはこういうものなんだ!で、過去を踏襲することが当然!とのスタンスなのです。
こうなると、何でそれが大事なの?と疑問を抱く人にとっては、大事な意味がわからないまま
納得できなくなります。私はそれなのです。
おそらく、その原因は、過去を踏襲することが当然!とのスタンスにたつ人が、何が大事なのか
わかっていないから。しかし、踏襲されてきたからには、大事な意味があったわけで、
そこが伝わってこなくなってしまった。なぜ伝わらなくなってしまったか?と言えば、
おそらく、環境や価値観がアメリカ化していく中で、伝統や相続というものが、軽視されてきて
しまったのだと思うのです。日本には、オリジナルの文化があって、その理解は、各家庭の中で
培われてきたっぽいのです。それが伝わらなくなって、形だけが残ってしまい、形骸化してしまった
ものが沢山あるのです。私は形骸化した部分に疑問をもってしまうタイプなので、その答えが
見つからないと、納得できなくなってしまう。
だからこそ、その答えを教えてくれる人を欲したいのですが、なかなかそのような人がいないのです。
学校の校則もその最たる例です。
例えば、昔は男子は丸坊主で、女子はおかっぱ。(私の時は、野球部は丸坊主!でした。)
これって、何で? そこに明瞭な理由があればいいのですが、その理由が校則だからだ!と答えられると
理由が明瞭でなくなります。でも、こうやって答えてくる先生は、結構多い。
この原因は、校則ができた当時から時代が経つにつれて、先生が入れ替わり、校則を作った時の人達の想い
が相続されていかず、校則だけが残ってしまったわけです。理由なき校則は、もはや形骸化です。
校則は、時代と共に変化すべきものだし、しかし変えてはいけないものだってある。
そんな根幹部分こそが大事だと思うのに、そこが面倒なのか、先生は「校則に従え!」で終わになってしま
う。いや、先生に限らず、多くの人達も、同じように、ルールに従え!となりがちでしょう。
ルールに従うのはいいのです。ただし、そこに納得できる、あるいは理由あるルールとして説明ができるこ
とが大事だと思うのです。
最近になって、ルールには理由があって、そこに日本文化のオリジナルが詰まっている可能性がある!との
気づきもでてきたので、日本人は高度な文化を有していたんだな!と、昔の日本人に興味が深まるばかりで
す。9月と聞いて、新学期を思い出し、つらつらと綴ってしまいました。