「なぜ人を殺してはいけないのか?」の疑問には誰も答えられない 仏教からの一つの答え

投稿日: カテゴリー: 日記

こんばんは 副住です。
今日は更新が遅くなってしまいました。
佐世保の事件も手伝ってでしょうか、こんな記事を見つけました。
記事
なぜ人を殺してはいけないのか?
これは、あまりにも当たり前なこととして思われているのですが、意外に答えが難しい問題です。
以前、五木寛之さんがTVでお話されていたことを思い出します。
それは、五木寛之さんがアメリカに行った(宗教に関してのTV取材を通じてのことです)時、お話されていた内容です。
それは、ある少年が、「なぜ人を殺してはいけないのですか?」と宗教者(仏教者だったか?)に質問をしたのだそうです。
すると、宗教者は明確な答えをだせなかったと話しておられました。
なるほど。これは確かに大変な問題ですね。
人を殺してはいけないの?と考える時点で、正常ではないと私たちは考えてしまいますが、
しかし、そのように考える人にとって、明確な理由が説明できない私たちのあり方は、もっと疑問にうつるかもしれませんね。
さて、仏教を学んだ私的には、以下のように考えています。この話はよく子供たちにしています。
仏教の教祖であるお釈迦様は、私たちのレベルにあわせて教えを説いてくれました。
その教えの一つには、お釈迦様の誕生時の説話も含まれていると思います。
お釈迦様は、この地上に生まれた時、すぐに立ち上がり、
東西南北それぞれの方向に七歩づつ歩き、「天上天下唯我独尊」と仰ったと伝えられています。
その意味ですが、
「お釈迦様はこの地に身をもって生まれてきて思われたことがありました。東西南北、それから天上天下、つまり、あらゆる方角を見回したけれど、
私ほど大切なものは見当たらない(唯我独尊)」ということです。(この解釈には、他にも数個ありますが)
さらにこの背後には隠れた意味があって、私がそう(上記のように)思うのだから、他の人も私と同じように考えているだろう(つまり、自分が一番大切だと思っている)。
だからこそ、他の人と接する時は、自分と接するようにしていきましょう。
(つまり、自分がして欲しいことを他の人にもしていこう。自分がして欲しくないことは、他の人にもしないようにしよう。ということです)
これは、私たちがつい自分を優先してしまう生き物ということを、お釈迦様は見抜いておられ、だからこそ、そのレベルに合わせて説いてくれた教えであると理解します。
そう考えると、「なぜ人を殺してはいけないのか?」との疑問にも答えがでてくるのではないでしょうか?
自分がして欲しくないことを、他の人にしないようにしよう!ということです。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」と思っている人は、自分が殺されたいのでしょうか?
けっして そんなことはないと思います。自分は殺されたくないけれど、人を殺してみたい!・・・こんな発想は、自分勝手極まりないあり方です。
この世界は自分一人で成り立っているのではありません。様々な物事が関わり合って私も成り立っているのです。
だからこそ、あらゆるものに敬意をはらう必要がありますし、だからこそ、自分勝手な行動は謹んでいかねばなりません。
そこのところが最近余計に見えなくなってきてしまったのでしょう。
個人を重んじ、尊重していく風土です。ある意味では楽ですが、ある意味では大間違いです。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」難しい問題にみえますが、そんなことにも答えられないのは寂しすぎます。
こんな質問がでてくること事態が、自分勝手な世界となっている現状社会を確認させてくれます。
もう少し、この社会を整えていく必要があるように思います。
 

9月の法話会 9/13 西照寺別院

投稿日: カテゴリー: 仏事・情報・更新

9月の法話会ですが、13日に西照寺別院(新東松山斎場)で開催されます。
法話会は毎月(8月は除く)第二土曜日の
13時半~勤行 14時~ 法話
となっております。お時間の許す方は法話の後、お茶会をしています。
どなたでもご参加いただけます。どうぞお気軽に仏教の話を聞いてください。

「自殺した途端に「イイ人」に改める報道への違和感」に賛同

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
笹井氏のマスメディアの件に関して、まさに同感の記事がありました。
フリーライターの方のようです。
自殺した途端に「イイ人」に改める報道への違和感
多くの方も同じように思っているのですね。
だからこそマスコミも、もっと取り合える視点の方向性にバラつきがあってもいいように思います。
そうならないかな。
集団的自衛権の問題にしても、理解しようと思う部分もあるけれど、当然不安要素を多く含んでいます。
ここに関しては、マスメディアも危険性を報じているので、政府の抑止力となっているように感じます。
しかし、仮に日本が危険な方向に進みそうな時に、政府とマスコミが一斉に同じ方向性を向きだしたとしたら
とても怖いことだと思います。
だからこそ、私たちは自分の考え方をしっかりと持ち、時としてマスコミにも立ち向かえるような力強さも必要だろうと思います。
さて、マスコミについての話は数日取り上げているので、今日で終わりとします。
最近、今までと違い、当ブログで熱弁長文を展開しておりますが、ご勘弁ください。
(数日前のブログ記事に関して、読者の方よりお便りをいただいたこともあって、少し真面目に自分の考えを綴ってみようかと思い続けています)
今後は、時には意見を展開し、時には日常の出来事を綴ったりしていこうと思ってます。
一宗教者としての意見を大事にしながら発信していこうと思ってます。

「話のわかりやすい人」になる、たった一つの方法。

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
昨日のブログ内容に関連してですが、今日のニュースで触れられていました。
「NHKスペシャル」で15分にわたり厳しい追及 理研・笹井氏自殺に影響はあったのか
自殺の一因になったかもしれない と書かれてありましたが、一番肝心な 「反省」あるいは「今後に向けた課題」については触れられていませんね。
さて、今日は話題を変えまして、私が関心の高かった話題があったので、ご参考までに。
「話のわかりやすい人」と「話のわかりにくい人」のちがい
私は僧侶として、お寺でご法話(仏様のお話をさせていただくこと)をさせていただく機会があります。
自坊(私のお寺)、あるいは他のお寺さまでお話させていただく機会もあります。
ご法話では、わかり易い話をしたいものだと考えています。
(仏様のお話は、私たちの思考レベルを超えている部分があるので〈私たちの思考が追いつかないという意味です〉、それを私たちのレベルに落とし込むことは、とても大変なんです)
そういえば、私が学生だった頃の様子を、ある先輩は教えてくれました。
「相手にわかってもらおうと思ってないように感じる」と教えてくれました。(つまり、自分だけわかっていればいいということと同義かもしれません)
これは、おそらく私が書いた論文について、先輩から見えた感想ということだったかと想像しています。
私は特に、精神的な部分(特に宗教の部分)の問題については、個人の問題だと思う節があって、論文にはその姿勢が出てしまったのでしょう。
先輩はそのあり方を指摘してくれたのです。
しかし、ご法話(宗教の部分の話)をさせていただくようになって、他の方々へも解ってもらいたいと思う部分もでてきました。
そうなると、「話のわかりやすさ」は大切になります。では、どう話たら「わかり易い話」ができるのか?
仏教の教祖であるお釈迦様は、対機説法(タイキセッポウ・・・その人その人に適した説法ができたという意味)ができたと伝わっています。
お釈迦様は、理解能力が異なる人々に、その人に一番適した方法(話し方)で教えを説いて理解させることができたのです。
それは、相手そのものがわかっているからこそ可能な技です。
いかに相手を察することができるか、いかに相手の立場(あるいは視点)で自分をみれるか、そこがものを言うのではないかということでしょう。
人間一人一人違います。同じ話をしていても、聞く人が異なれば、聞き方は違います。
だからこそ、「複数の方の前で話をする方法」と「個人的に話をする方法」は分けたほうがいいのかもしれません。
私はこれまで、ご法話では「伝えたいこと」に重きを置いていました。
皆がわかろうが、わかるまいが、「大切なこと」を伝えようと思ってきました。
しかし、上記の考え方からすると、「本当に伝えたいこと」は個人的に話をする方法で。
複数の方の前で話をする時は、「多くの方が共感できること」を大事に話をしていかねばならないのかと思っています。
ご法話に関していえば、複数の方の前で話すことは、「本当に伝えたいこと」に導く為に、「多くの方が共感できる話」をしていこうかと思います。(難しそうですが)
最終的な結論ですが、「話のわかりやすい人」になる為には、相手をいかに察することができるか が問題となります。
人間は人それぞれ違うので、あくまでも個人に視点をあてるべきです。
相手の立場を考え、顔色、仕草、目線など、あらゆる情報を察知し、話を展開できる能力が必要となります。
日々、そんなことを心がければ、いつの日かスキルが上がっていることでしょう。

「理研 笹井副センター長 死亡を確認」の背景にみる2つの注意点

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
今日、理化学研究所の笹井副センター長がお亡くなりになられたとニュースで報じられていた。
驚いたし、残念だった。
再生医療の一分野の第一人者と言われた方だ。
再生医療者であるのだから、体の病から人々を救っていくことに信念をもって行動されてきた方だっただろう。
医療に貢献したいと思い、第一人者とまで言われるくらい努力されてきた方である。
もし自殺だとすれば、そのような人をも自殺に追い込んでしまうほどの環境があったということも言えるかも知れない。
そもそも人間は皆、共通して生きていたいと思う生き物だ。
自殺とは、本来は生きていたいはずなんだけど、だけど、生きるよりも死を選択せざるを得ないほど、生きることが苦しい状態になってしまった時に起こり得るものだと思う。
自殺した方は死にたかったのか?いやそうではない。そんなはずはない。
死にたくないのだけど、だけど死を選択せざるを得ないほど苦しんでいるんだ。
周りの人々は「なんでこうなった?」と言ったり思ったりする。
解るはずがない。そこまでのことを経験したことがないのだから。
自殺を推奨するわけではない。しかし、自殺をせねばならないほど苦しかったんだ。
そこを認めなければならない。
さて、今回も自殺の可能性が高いとみられる。
TVでは笹井氏の件について、理研の記者会見の一部が放映されていた。
そこでは、マスメディアの記者の方々があらゆる質問をしていた。(まるで傍観者のように)
その中で、特に印象的だったことは
「遺書」内容を公開すべきだとする記者達の意見であった。もちろん、理研との関連で綴られた内容についての公開ということである。
理研の記者会見の担当者であった方は、詳細を把握していない「遺書」についての言及は避けていたが、立て続けにおこる声に
最後は「公開できる部分は公開するようにしたいと思う」と意見が傾いていった。
私は、メディアの方々(一部の方だけなのかもしれないが)の質問を聞いていて、笹井氏の苦しみに共感することなど微塵も感じなかった。
言葉は悪いが、他人事である。
・・・「遺書」らしき物の内容を公開しないといけない!と思いますが・・・
・・・小保方さんは「遺書」をみてどう思ったと思われますか?・・・
・・・「遺書」らしき物は封筒に入っていたのですか?・・・
個人的には、このタイミングで質問内容が「そこ?」と思わされました。
ある時にはマスメディアはこぞって、「□年連続、自殺者3万人超え」などと報じ、その問題や対策などについて論じているのに、
いざ注目案件から派生した自殺については、本当に自殺だったのか?など確認する質問はなされない。
また自殺だったと仮定して、その問題背景や取材や報道の影響についてなどには視点があてられない。いや最初から興味がないのかもしれない。
なぜ、私がそんなことを言うのか?といえば、以下のことも付随している。
今日の記者会見では、笹井氏がSTAP論文の偽装問題について記者会見(4月の出来事)をする前に入院をしていた事実も明かされていた。
笹井氏はSTAP問題が発覚し、精神的なストレスで3月に1ヶ月ほど入院していたというのである。
そして退院後の4月の記者会見で、記者より「上司である笹井氏からの会見があまりに遅い」と指摘されていた。
(笹井氏は自身の入院などには触れず、他の理由で応答していたが・・・)
ネイチャーに掲載されるような論文が偽装だったとしたら、それだけでも専門学の世界で大きな責任を負う。
だからこそ、笹井氏による小保方氏の論文確認不足は、信頼失楽という自己責任に繋がる。
それはそれで、いいのではないか?そこだけでも本人の苦痛は大きなものだと思う。
マスメディアを使い、日本全国でいつまでもいつまでも避難するような風土をつくらなくても。
私は今回の件の背景には、1つにマスメディアの姿勢が大きく関与していると感じる。
マスメディアはどこに向かって取材をしているのか?方向性である。
実は今日私は、あるマスメディアの取材を受けてきた。
私が取り上げられるのではなく、ある種の見解のサポート役として参加してきた。
そこで、マスメディアの方に、情報操作をしないように求めたのである。
すると、先方は「売れる為」あるいは「社会が興味あることを報じたい」と答えてくれた。
確かに理解ができる。
しかし、情報操作の方向性が、「売上」「社会の高反応」を目的化していることが問題だと感じる。
「売れる為」あるいは「社会の高反応」というものは、「印象に残る」ことや「興味の掘り起こし」に重きがあって、大切な事柄などは
「社会の低反応」が予測される場合、報じられないのである。
例えば、自殺の問題に関して言えば、印象に残ることは「○年連続 3万人の自殺者」なのであって、
「社会の低反応」は、「一つ一つの自殺」なのかもしれない。だから自殺の一つ一つを取り上げない。もちろんキリもない。
だからこそ、笹井氏の自殺(かもしれない)について、何が問題だったのかとか、マスメディアの取材の仕方などについては取り上げられていない。
そのような姿勢をとっているマスメディアは、笹井氏を自殺に追い込んだ一要因になっていた可能性があるように思えてならない。
(報道の姿勢も、「社会の反応」を期待すれば、笹井氏叩きにもなるだろうし、笹井氏の気持ちなど取り上げても、社会は低反応なのかもしれない)
この姿勢が変わらなけらば、マスメディアはいつだって加害者であるという認識にはたてないだろう。だから問題だと思う。
また、2つめの背景として、マスメディアが作り出した風に乗っかってしまう我々のあり方も関係しているだろう。
私たちは多くの人が笹井氏の人間性など直接に知らないだろう。情報はマスコミを通じてである。
だからマスコミが作り出した幻想の笹井氏を、そのまま受け止め、批判できる部分のみ大きく取り上げ批判をしてしまうのかもしれない。
そう考えると、私たちも加害者であるとも言い得る。
学校では「いじめ」があって、被害生徒が自殺をしたら、「いじめ」をした加害者を追求し、何らかの対策を講じる。
しかし、今回のように加害者が広すぎると、また加害者だとも認識されないような場合、そこはうやむやになってしまう。
不思議なものだと思う。
これら笹井氏の自殺(かもしれない)背景に、二つの注意点をあげてみたが、皆さんはどのように考えるでしょうか?
最後に
小保方さん、人生は人それぞれ苦難がありますね。
でも、きちんとその苦難をわかってくれる、見ていてくれる方もおられます。決して一人じゃない。
仮に社会全部を敵にまわしても、わかってくれる方がおられます。それが阿弥陀仏という仏様です。
目にはみえないから確認できないけど、ずっと一緒にいてくれる仏様です。だから一人じゃない。

事前のストレス・事後の充実

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
昨夜は結局23時すぎに自宅に帰れました。
昨日は、埼玉県の狭山市の次に、東京都港区の三田という場所まで移動せねばならないスケジュールでした。
どちらも、お寺の行事で、私がお話をさせていただくご縁でありました。
双方、話の開始時間が設定されており、移動時間を考えると、ギリギリのスケジュールだったのです。
そこで自宅から狭山市までは車で、その後、時間の正確さを考え、狭山の駅に車を停め、電車で移動するという交通手段を選択しました。
特に電車の発車時間と乗り継ぎ時間に気を使いました。1分でも早く到着しておきたかったので、
どの路線を乗り継いけば一番早いか?乗り継ぎの時間はどのくらいか?などスマホを使い考えました。
東京都内の電車は早い時だと3分おきに電車がきます。その為、乗り継ぎ駅では、効率よく移動することで、一本前の電車に乗れるか一本後になるのか などが変わってきます。
しかし、乗り継ぎ駅の中には、あまり来たことがない駅もあるため、駅の構造がわからないものがあります。
電車の、どの号車に乗っていれば、階段が近いのか、どの階段を使えば、乗り継ぎホームと接続がスムーズなのか?わからないものを考え出すと、さらにストレスとなりました。
しかし、時間に追われるというのは、とてもストレスになりますね。
日本は時間がきっちりだから、海外の方とかも驚かれるようです。
特に電車は時間通りにくる(最近は、事故などがよくあって、遅れることも多々ありますが)ので、乗り換えの際などはギリギリの接続に間に合わせようと走ってみたり・・・
学生の頃、インドに3回ほどいきました。
インドの電車は、予定時間はあるのですが、基本的にあてにならない。
インド人に聞いたら、「電車は来る時に来る」と教えていただきました。・・・「当たり前だろ(`Δ´)!」と思ったことを思い出します。
インドの移動で電車を使ったことが何度もありますが、1から2時間の遅れは当然です。
しかし、希に定刻に来ることもあるので、一応定刻には駅にいなければなりません。
私が経験したインドの電車は、予定時刻の2時間以内に電車は来てくれましたが、ひどいときは6時間とか待つらしいです。本当かな?と思ってしまいます。
ですから、インド人ものんびりしているというか・・・
私がインド人から聞いた話では、友達と待ち合わせしていても来ないこともざらにあるのだとか。
理由は「待ち合わせ場所に向かう途中、他の興味ある出来事があったら、そちらを優先してしまう」のだとか。
待ちぼうけをした人に対する答えとしては、「行こうと思って、途中までいったのだけれど、神様が行くなといったから」のようになるのだとか。・・・これまた本当かな?と思いました。
流石にインドの電車はやりすぎですが、サッカー日本代表の前監督であったザッケローニさんは、地元イタリアにおける講演会で
日本の素晴らしさを熱弁された過去があります。その際、日本の素晴らしさの一つに、「日本の電車は時間が正確である」ということを話ていたようです。
私はイタリアにも行ったことありますが、インドほどではないにしろ、数分遅れることはあったような気がします。
日本に住んでいると、電車は予定時間通りにくることが当たり前という感覚になりますが、他国をみてみると、そんなこともないのです。
しかし日本だと、電車が定刻通りに来てしまうので、予定がしっかりとたてられてしまいます。
なまじ予定がしっかりとたてられてしまうものだから、効率性を求め、ギリギリのスケジュール調整をしてしまい、挙句、ストレスをかかえてしまう。
まさに自分で自分の首を絞めているんじゃないかな~と思ってしまった一日でした。
でも、なんとか予定をこなす事が出来たので、妙な充実感も漂っております。
「事前のストレス、事後の充実」というところでしょうか。
(予定通りにいかなかったら、充実感はありません。その時は「事前のストレス、事後の反省」となります・・・これは最悪ですね。こんなの経験したくないな)

時間に追われて・・・

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。 副住です。
今日は午前中に自坊でご法事を勤め、その後、狭山のお寺さまでご法話をさせていただき、
そのまま港区のお寺さまに伺い、ご依頼された研修会の講師を努める予定なのです。
時間に追われる日なので、上手くいって欲しいと願うばかりの一日です。
この数日、法話の準備や研修会のレジュメつくりなどで追われていたので、今日を何とか乗り切りたいと思っています。
そんなわけで、今日はこれから忙しなくするので、ブログの内容が私の予定となってしまっています。
明日はまた、何かしらテーマを見つけて更新できたらな・・・と思います。
それでは皆様、連日暑いですが、今日一日頑張って、そして貴重に過ごしてまいりましょう。

足りない世界を生きないで

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
今日は以前、あるお寺さんにて掲載した法話を再掲載してみようと思います。
題名は「足りない世界を生きないで」とでもしておきましょう。
日々の生活の中で、つい他人と自分を比べてしまい、不安になったり苦しくなったりする事ってありませんか。例えば、「同世代の友人は結婚しているのに、自分はまだ独身だ」と不安になることや、「自分の家庭よりも、友人の家庭が良くみえる」と苦しくなることなど色々とあるでしょう。私たちは知らず知らずのうちに他人と自分を比べながら、時には苦しんでしまう存在のようです。
ところで、どうして私たちは他人と自分とを比べてしまうのでしょうか。
もしかしたら、そこには明確な答えなどなく、気づけば比べていたという事が多いのかもしれません。ですから、不安や苦しみをつくらない為に「比べるな!」と言われたとしても、難しいのです。むしろ、比べてもよいのではないでしょうか。
ただ、他人と比べることで、自分に「足りない」と思う部分をみつけることがあります。それは問題です。「私にはこれが足りない」。そう思うと、不安や苦しみが顔を出します。私たちの心は欲深いもので、自分に「足りない」ものを見つけることが上手です。また、一度「足りない」と思うと、気になりだし、挙句それを欲しようとします。欲すれば欲するほど「足りない」ものが強調され、不安や苦しみは大きくなっていくものです。
一方で「足りている」ところには、なかなか目が向きません。時には、目が向かないどころか「足りている」こと自体に気づかないこともあります。どうやら私たちの心には「欲する」という心の病が潜んでいるようです。自分が病に侵されていると気づけば、症状が酷くならないよう労ることもできますが、病であると気づけなければ、症状は酷くなることもあるでしょう。
この心の病に対する良薬は仏法です。仏法では「少欲知足」という言葉があります。「足りない」部分をみつけだす世界を生きるのではなく、「足りている」世界を歩みなさい!と教えてくれる言葉です。「足りている」世界、そんな世界こそ、他人を認め、許していけることができる世界ではないでしょうか。「足りない」部分をみつけだす世界と、「足りている」世界と、あなたはどちらの世界を歩みたいですか。因みに私は後者です。

「命の教育」はQC活動じゃない、宗教的にみる責任の所在は

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
先日発生した、長崎県佐世保市の少女殺害事件が報道を賑わせています。
こんな記事を見つけました。
「命の教育」はQC活動じゃない(以下、上記記事と略す)
記事を読んだ感想として、大いに同意するところもありました。
ここからは一宗教者として、私の所感(上記記事に沿って)を綴ってみたいと思います。
所感のポイントは、この事件の責任についての部分です。
マスメディア(特に大手新聞)では、事件の内容から責任について報じ始めています。
上記記事では
「この種の事件が勃発すると、「悲劇」の反対側で、「責任」の物語が展開される。 つまり、自分の責任をまっとうすることができない子供が主人公に設定されている物語では、その子供以外の誰かに責任を持っていくタイプのストーリーが考案されなければならないということだ。今回の事件では、事件が起こるや、新聞各紙は、こぞって、「命の教育」をスケープゴートにあげた。
長崎では、2003年と2004年に少年による殺人事件が相次いで発生し、以来、県をあげて「命を大切にする教育」に取り組んでい」たことを取り上げている。
そこで大手新聞は、命の教育の関係者が「異口同音に反省の声を絞り出」している声を報じている。
現代社会に生きる私たちは、責任という言葉が好きなのですね。背景には、責任の所在をはっきりさせることで、事件に納得をさせていくという構図が見て取れます。
特に佐世保の事件は、常軌を逸している故、事件を知った人々は、論理的にも感情的にも納得がいきません。
納得できない不可解な出来事であるが故に、注目も大きいのでしょう。だからこそ、責任の所在は大切なのでしょう。皆が納得しないと気がすまないから。
ここで、責任の所在を新聞各紙は「命の教育」に求めようとしているのだと上記記事では取り上げます。
当事件では非常に曖昧な、見えづらい責任の所在を、「命の教育」に押し付け、社会を納得の方向へ導こうとうする意図でしょう。
上記記事では、
「「命の教育」なり「命を大切にする教育」なりを徹底すれば、少年による殺人を根絶できると、現場の教育関係者や、その動向を伝える新聞記者は、本心から信じていたのだろうか(中略)相手は人間だ。まして成長期の子供たちは、様々なバラつきを含んでいる。何万人に一人という例外的な精神の持ち主だって、必ず混じっている凶悪な殺人事件が1件起こった事実をもって、ただちに10年間の取り組みを失敗と評価する見方は、こういう場面では、過剰反応と言われても仕方がないではないか」
と述べ、そもそも人間教育はQC活動(品質向上のためにとる生産活動)とは違うと、違和感を述べているのです。まさに同感です。先日のブログでも書きましたが、マスメディアは情報操作し、社会の意識を導く媒体として成立しています。だからこそ、マスメディアがこぞって今回の責任を「命の教育」へもっていくと、社会的な考え方として、「命の教育」はダメだったんだとなってしまうのでしょう。これは危険な考え方です。
最後に、上記記事では、
「そもそも、殺人のような極端な犯罪の発生を防ぎ、その根を断つための条件は、学校よりは、どちらかといえば家庭にあるわけだし、家庭が機能していない場合は、政治(あるいは福祉や教育や社会保障)にその責任が求められなければならないはずだ」と述べています。
やはり、責任の所在を明示するという方向で綴られています。
もちろん責任の所在は大切ですし、事件が二度と起こらないようにするためには、責任の所在を明かすことは必要でしょう。
しかし、これを宗教的にみるとどうなのか?切り口の方向性を変えてみたいと思います。今回は『歎異抄』を参考に所感を述べます。
『歎異抄』の13には、
親鸞聖人と唯円という弟子とのやりとりが記されています。
ある時、親鸞聖人は唯円に「唯円よ、私の言うことを信じるか?」と言われます。
すると唯円は「もちろんです。信じます」と答えました。
次に、聖人は「私の言うことに背かないか?」というので、唯円は「つつしんで承知します」と答えます。
そこで、聖人は「では人を千人殺してきなさい。そうすればお前の往生は確定するだろう」と言い出します。
すると、唯円は「私にはただの一人も殺すことはできません」と応じました。
そこで、聖人は「約束が違うではないか」と述べ、続いて唯円に以下のようにさとしました。
「これでわかったろう。どんなことでも自分の思い通りになるようならば、千人だって殺すことができるはずだ。しかしながら、(現実には)一人でも殺せるような因縁がなかったから
殺害しなかっただけなのだ。自分の心が善いから殺さないというのではないのだ。また逆に、殺害すまいと思っても、百人・千人というたくさんの人たちを殺すこともあるだろう」と。
この見方からするならば、因と縁が重ならないと事象は起きないことが見て取れます。
殺したくないと思う心の因としてあっても、殺してしまう縁とあえば、殺人は起きてしまいます。
また、殺したいという心の因があっても、殺すことができない縁とあえば、殺人は起きないということも言えるでしょう。
森羅万象は諸行無常です。ありとあらゆる因縁が複雑に、まさに人智を超えて展開しています。
まさに宗教の世界です。
だからこそ、宗教的なある種の一面的な見方からすれば、そもそも責任の所在を特定に断定することは不可能でしょう。
それを行おうとする人間の考え方に問題があります。
しかし、だからといって責任の所在を明かすなと言っているのではありません。そうではなくて、特定して責任の所在は明かせないということを知っておくことが大切であって、
そこから出発することで、事件の因的な性質と如何に向き合っていくべきかを検討していくことが大切なのではないかと思います。
上記記事では
「一人の人間の一生の中でも、その時々のタイミングやめぐりあわせで、様々な不確定要素があらわれるもの」と指摘しているのです。
だからこそ、責任を特定し、断罪していくという今の流れに賛同はできないし、その方向に疑いを持たなくなってしまった私たちのあり方も反省しないといけないのかもしれません。