山口の海 (穴場)

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
昨夜、山口から帰宅しました。
妻とこどもが実家に帰省するというので、私も1泊だけついていきました。
土曜日にご法事が1件だった為、住職にお願いし、金曜日と土曜日の1泊で行ってきたのです。
実は日曜日(今日)にご法事が4件勤まったので、土曜日には帰宅しないといけなかったわけです。
(住職は近年、声が出づらく、ご法事を沢山勤められないのです。せいぜい2件なのです)
金曜日は夕方に山口に着いた為、実家で夜の食事をし、皆で近くの温泉に行きました。
さすがに疲れたので、早めに就寝。
土曜日になって、午前中、こどもと共に海へ。
実家の近くはとても綺麗な海があって、夏に海水浴をしに来ます。
近所の人しか知らない穴場なのです。
それが ここ
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透明度が高い。そして波もない。
私は埼玉県で育ったので、海はあまり身近でありません。
その為、海に行くとなんだか ワクワク感が高まります。
妻は、海に行こうとも思わないらしいのですが、私とこどもは大興奮!
泳げないけど、何かいるんじゃないか!?と海を見に行ってきました。
その後、お昼を食べ、そのまま私だけ帰宅の途に・・・
また夏に泳ぎにきたいな。

いざ山口

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。副住です。
昨日、こどもの学校が春休みに入りました。
そこで、今から妻の実家に帰省してきます。
私も同行し、一泊ですが、あっちで過ごしてきます。
飛行機には乗らずに、新幹線で向かうこととなりました。
遠方なので、一泊では疲れますが、こういう時でもないと、行けないのでプチ旅行気分で行ってきます。
そんな経過で、明日は更新ができないかも

埼玉組 組会

投稿日: カテゴリー: 日記

こんばんは 副住です。
今日は埼玉組の組会が越谷市の光善寺さまを會所として、開催されました。
私は役職なので、9時に行かねばならず、ブログの更新を夜に回して、組会に先駆けました。
無事、組会も終わり、私の組会の仕事が一つ終わりました。
来年の3月の組会を終えれば、お役御免ということで、組の役職から離れられます(やっとだ)
今日の組会では、次年度の組の活動計画案と予算案が審議され、諸々無事に承認いただけたわけです。
これで、来月からの活動を始められます。
17時頃、ようやく帰宅し、これからJCの会議があるため、会場に行ってきます。
今日が終わったことで、違う資料作成に時間が配分できるようになりました。
なんだかんだいって、たくさんの資料作成をするハメになってしまい、落ち着くのは4月15日頃になるだろうなと予想してます。
それまでは、頑張らないといけません。
うーん、4月15日までまだちょっとあるな。

支え合い

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
過日(昨日だったかな?)、埼玉組の組会資料づくりで、事務経費がないことを記載しましたが、
事務経費はあるとのことです。会計担当の方より本日電話があり(まさか、このブログを読んではいないと思うのですが)、
事務経費が落ちるという連絡を言い忘れてました!と教えてくださいました。
実は昨年の組会も、今年同様に私が資料をコピーし用意をしたのです。
その時は事務費を貰えなかったので、過日ブログにあのように書き込んだわけです。
そうしたら、昨年も今年も含め、事務経費を計上します!と教えてもらえたのですが、
それはそれで良かったのですが、昨年の経費は昨年処理しているはずではないのかな!?と私は若干疑問に思ってしまいました(笑)
埼玉組という団体の役員になると、雑務や会議が多いのですが、ほぼ全てがボランティア。
埼玉組のために行っていますが、個人的・あるいは自坊にとっては負担ばかりとなるのです。
ましてや、資料作成の手間や、作成準備などまで個人(お寺)もちだと、はっきり言って「ハズレくじ」です。
誰もやりたがりません。私も二度とやりたくないです。
しかし、誰かがやならければならないことも確かです。
「できる人がやればいい!」とい考えていく世界ではなくて、「順番に、皆がやっていく!」という共通認識が大切だと思います。
僕も愚痴の男ですが、最近少しだけ器が大きくなった気がします。(もともと器が小さいので、前よりもちょっとだけ大きくなったという意味です)

卒業式

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
今日は26日行われる、埼玉組組会の資料を作成しています。
25ページにも及ぶ資料を70部作成します。
作成するのは構わないけど、事務費などもらえないのかな?と思います。
ちっちゃなことかもしれませんが、印刷代(インク代)や紙代など、色々と経費がかかります。
表紙などを含め、1部14枚(両面印刷で28ページ)を70部ですから、合計1000枚程度の紙に印刷することとなります。
これらの経費まで担当者任せということになると、次の担当者がいなくなってしまう恐れが大です。
そんな風にならないよう、今のうちから、きっちり発言しておこうと思っています。
さてさて、今日はこどもの学校で卒業式があったそうです。
お世話になった6年生を送り出したのだそうです。
この時期、成長を感じる季節なのかもしれませんね。
卒業生、おめでとうございます。
ぜひとも、後輩を導いていける先輩となっていってください。

花粉症

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
お彼岸も明日でおわりです。
ようやく暖かくなってきました。
昨日は、草加市の光明寺さまにお邪魔してきました。
たくさんの方々がお参りに来られ、ご本堂は満堂でした。
さて、今日はお彼岸参りをしています。
お参りの間の投稿となってしまいましたが、今日も暖かくて春日より。
予報では今日からまた寒さが戻るとの予報でしたが、この程度なら大丈夫。
私は花粉症ではないため、今のところマスクなどは必要ありませんが、
妻は目がかゆい、くしゃみがとまらない など苦労しています。
3月末の暖かくなるこの時期は、大変そうです。
私は花粉症だけにはなりたくない。

オレオレ詐欺

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。副住です。
昨日はお彼岸の中日、ブログの更新も滞ってしまいました。
さて、今日は朝からの投稿です。
一昨日の続き。
電話の相手の声が自分の声ではないことに気づき、しばらく聞いてみることに。
すると相手が私に「お父さん、お父さんの携帯番号を教えて」と尋ねてきたのです。
私は思わず笑ってしまいそうになりながら堪えて、デタラメの番号を教えたのでした。
すると、相手は「携帯にかけ直すから・・・」といって電話を切りました。
しかし、私の名前で電話がかかってきて、しかも、その電話を本人である私がでたのに、
私は「自分から電話がかかってきた!」と思ってしまうほどのものです。
オレオレ詐欺はひっかかります。
一度信じてしまうと、自分を疑いません。
疑いようがないので、完全に騙されてしまいます。
私はTVで「オレオレ詐欺」の被害がよく放じられているので、高齢者がひっかかり易いんだろうな!?
とある種、自分は違うという感覚がありました。
しかし、いざ実際自分が経験してみると、私も状況さえ合致(例えば、本当に適齢期の息子がいて、先方が息子を名乗っていたり)したら、完全にひっかかってました。
その位、自身があります。
家族皆に話をしてあるので、もうひっかかることはないでしょう。
また、一度かかってくるということは、名簿が出回っているため、(違う相手から)何度もかかってくる恐れがあるとのこと。
ですから、覚悟をしています。
どうぞ、皆さんもひっかからないでくださいね。

オレオレ詐欺の電話が・・・

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 副住です。
この6日間、連日私の感じていることについて連載してきました。
お寺には、今こそ果たすべき大きな役割があるということです。
西照寺も頑張っていこうと思います。
さて、この6日間でオレオレ詐欺の電話が西照寺にかかってきました。
ある日の夜に電話がかかってきました。
電話には、ナンバーディスプレイ(相手の電話番号が表示されるもの)がついています。
夜にかかってくる電話は、だいたい知人のものが多いので、見たことある番号が表示されるのです。
しかし、この日は非通知とでました。(番号を通知したくない場合は、非通知設定をすれば、非通知と表示されるのです)
夜に、非通知でかかってくる電話です。
おかしいな!と思いました。
電話にでると、先方が「○○だけど」と私の名前を言うのです。
私は自分から電話がかかってきたことに驚きました。
私は困惑して「あ・・・」と言って、とまってしまったのです。
実は半年か1年前か覚えていませんが、同じことがあったのです。
ブログにも綴ったことですが、その時も夜に電話かかかり、私がでたところ「○○だけど」と先方が私の名前を言うのです。
(この時は、寝る時だったので、電気を消していてナンバーディスプレイを確認しないで電話をとりました)
その時は、私は自分から電話がかかってきたことに驚いてしまい、「○○は俺だけど」と言ったのです。
すると、電話が切れてしまいました。
その時、私が一番驚いたことは、先方の電話の声が、私の声そっくりだったことです。
自分の声は、今はICレコーダーなどで録音し、聞くことができます。
私の場合、会議や講演などで話す場合があり、それを録音されたりすることもあります。
その後、会議や講演などで自分が話したことを雑誌や報告書に載せる為、記事を書くよう依頼があります。
その際、確認などのために、録音された自分の声を聞くことがあるのです。
その為、自分の声は理解しているつもりでした。
それなので、受話器から聞こえてくる声が、自分のものかどうか判断できるつもりでいます。
以前の電話の受話器からの声は、まさに私の声だったのです。
自分でそう確信してしまっており、その感覚を疑うことができません。自分で信じ込んでしまったわけです。
だから、「自分から電話がかかってきたことに疑いをもちませんでした」
その後、ブログでその事を書くと、ブログを見ているご門徒Tさんから、「副住職、何かの間違いですよ」
「副住職、相当お疲れなんですよ」とたしなめてくれました。
しかし、その時は自分の感覚を信じていますので、「間違いなんかじゃありません」「自分の声だったんです。本人が言うのですから!」
と反論をしたことがあるのです。(要は「それくらい疑わない」ということを言いたいのです)
そのような過去があって、今回の電話です。
しかも「○○だけど」と言う相手の声は、前回同様またもや自分の声。
私は前回のことが蘇ったのです。
私の頭の中では〝また、自分から電話がかかってきた!”〝どういうことだ!?”と動揺し、
「あ・・・」と止まってしまったわけです。
ただし前回みたいに「○○は俺だけど」と言わなかったのです。(正確には、そんな言葉がでてこなかった)
すると、先方が「あのさー」と続けてきたのです。
電話が切れないで、相手が続きを話始めたことに、私の動揺心がおさまります。
私は少し冷静になって相手の話を聞きました。
すると、段々と相手の電話の声が、自分の声ではないことに気づいてきたのです。
(ちょっと長くなったので、続きは明日か明後日に綴ります。明日はお彼岸のお中日だから、更新できない場合があるからです) 

今だからこそ、お寺の果たし得る役割。価値観の転換 (理性と感性のバランス)

投稿日: 1件のコメントカテゴリー: 日記

こんにちは副住です。
2015年03月14日からの連載です。本日で6回目。
感性を磨くということは、人間の心を育てることに繋がるとても大事なことなのです。
私が思うことですが、宗教は感性と強く結びつく側面があると思っています。
例えば、人間がとても及ぶことができない、大きな力(はたらき)を感じとる感性があれば、宗教的な世界への入口となるでしょう。
だからこそ、宗教からたくさんの芸術が生まれているのです。
(例えば、絵画などは、神を表現しようと尽くされてきたものだったと思います)
浄土真宗では、阿弥陀仏の本願力という 目には見えない「はたらき」を人々に伝えていくことが大切となります。
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だからこそ、感性がとても大切なのです。
もちろん、感性だけでなく、私たちの理性に合わせるように教義もあるのです。
つまり理論もしっかり説かれているのです。こうすることで、理性と感性で伝えることができるのです。
しかし、理性だけで宗教(浄土真宗)を理解しようとしても、頭でっかちとなってしまい、本当に納得したり、頷けたりはできません。
私たちの理性を超えたものは、感性で受け止めねばならないのです。
(*専門的には、これは自力を意味しているのではありません)
人々が感性で、人間の理性を超えた力(はたらき)を受け止められたとき、そこに心の土台ができあがります。
つまり、心の中に人生の拠り所ができることとなるわけです。
それは阿弥陀仏だったり、神様だったり宗教の違いはあるでしょうが、兎に角、拠り所ができます。
その拠り所ができると、神仏に背を向けないような生き様を遂げようとする自覚ができてきます。
この自覚をもっているものが、宗教者ということになるはずなのです。
お寺であれば、僧侶ということです。
ですから、僧侶はお寺で「人間の生き方とは如何なるものなのか」を説いていく役割をもっているはずなのです。
つまり心の教育機関であるべき場所なのです。
宗教(浄土真宗)を頼りとする生き方を伝えるには、特に感性が大事となります。
ですから、お寺では、人々の感性を育てるような役割が必要なのです。
きっと、先達達はお寺でそのことを行ってきたのだろうと思うのです。
だからこそ、今でもお寺は「落ち着く」と感じてもらえるような、普段と違う雰囲気が流れているのだと思います。
現代の日本社会では、感性にもっと視点をあて、お金こそ大切!という価値観を見直す必要があるとのではないかと考えます。
そのことが主張できる機関こそが、お寺ではないのか!?と思うわけです。

感性にもっと重きをおこう (理性と感性のバランス)

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは副住です。
2015年03月14日からの連載です。本日で5回目。
今日は、経済合理性から話を移して、感性について綴っていこうと思います。
ここで言う感性とは、外界からの刺激を感じとる機能としての感受性のことであり、
また広げて、感じたことを心で思うこと、いわゆる感情のことも含みます。つまり感性=感情ということです。
現在の日本社会では、合理性(特に、経済合理性)に重きがおかれてしまっているような気がします。
そこでは、私たちの感性はあまり重要視されません。
というのも、「人間の感情におぼれないで、論理の法則に従うことを優先すること」が合理性の意味だからです。
ですから、日本社会の状況が、経済に重きをおいた合理性を優先するとき、個人個人の感性は後回しになっていく恐れがでてきます。
合理性で大切なことは、「感情におぼれない」ことなのですが、
一歩間違えると、感情を「ないがしろ」にして考えようとする傾向がでてきてしまいます。
現在の日本社会は、だんだんと、その傾向が見え隠れするような状況ではないか!?と個人的に感じています。
私たちはロボットではありません。
当然感情があって、時には論理よりも感情が優先する世界を生きているのです。
ただし、日本社会の雰囲気が合理性を優先するものだから、なかなか感情に視点があたりません。
感情は大切なのに、そこに視点があてられないものだから、心を疲弊させていく人も多いのではないでしょうか。
人間にとって、「感性」はとても重要です。
「悲しいと感じる心」「嬉しいと喜べる心」「他人を思いやれる心」「自然の力を感じとる心」「生きている素晴らしさを感じる心」「大きなはたらきを感じとる心」などなど・・・
これらの心は、論理や理屈から生まれてくるものではないのです。
すべて感性からくるものです。
感性を磨くこと、育むことは、人間の心を豊かにし、様々な満足感を高める可能性を有します。
もっと感性に軸足を移せば、新たな価値観に出会える可能性がでてくるのではないかと思うのです。
(明日は、お寺の果たすべき役割について綴ってみたいと思います)

今だからこそ、お寺の果たし得る役割。価値観の転換 (理性と感性のバランス)