おはようございます。住職です。
昨日の続きです。鎌倉時代以降、浄土系の宗派が誕生し、徐々に浄土系のお寺も増えていきます。
浄土真宗本願寺派に限って言えば、本願寺派八代宗主の蓮如上人(1415~1499)までは非常に勢力も弱く、
本願寺派のお寺も少なかったのです。
しかし、室町時代に蓮如上人の活躍によって、他宗のお寺が浄土真宗本願寺派に改宗したり、浄土真宗の他
の派(興正派)のお寺が本願寺派に改派をしたりと、大きく勢力を伸ばすこととなるのです。
もちろん、新しくお寺が建つこともありました。
ようやく、浄土真宗本願寺派のお寺が町中に増えてきた時代です。
因みに、蓮如上人の功績によって、現在の本願寺派は大きな勢力として存続できているのです。
蓮如上人がでられる前は、本願寺派は風前の灯火だったとも言われており、蓮如上人がいなければ、本願寺
派は無くなっていた可能性が高いのです。
因みに因みに、蓮如上人が、現在の大阪城を見出し、当時はそこに本願寺を移転させたのです。
それを石山本願寺と言っていました。
本願寺8世の蓮如上人亡き後、本願寺11世の顕如(ケンニョ)宗主の時に、織田信長と本願寺は戦をする
こととなってしまうのですが、織田信長が落とせなかったお寺こそが、石山本願寺なのです。
後に、信長が苦戦した石山本願寺との戦を知っていた豊臣秀吉は、その地に城を築けば落城できない城とな
る!と、築城するには好立地であることを見抜きました。
これによって、秀吉の時代に本願寺は石山の地から移転させられ、その跡地に大阪城が築城されるのです。
大阪城は、徳川家康も攻め落とすことが不可能である!と認めた好立地のお城でした。
家康は自分では攻め落とすことができないことを秀吉に認め、あえて秀吉に「落城の仕方」を乞うたと言わ
れています。
秀吉が亡くなった後、秀吉から教えてもらった大阪城の落とし方を用いて、夏の陣・冬の陣によって、
大阪城を落城させたのでしょうか。
さてさて、本願寺は石山の地から移転を繰り返し、最終的に、現在の京都の六条堀川の地に移ることとなり
ました。
秀吉の力によってです。
この際の移転では、秀吉が色々と用立ててくれたそうです。
京都の三閣の一つとされる「飛雲閣」も秀吉によって本願寺の境内に寄進されたとする説もあります。
因みに、京都の三閣とは、金閣・銀閣・飛雲閣です。
蓮如上人は非常に先見の明があり、また、多くの他宗派のお寺を浄土真宗本願寺派に改宗させたり、多くの
信者を増やしたりと、非常に魅力的な方でもあったのです。
そのように力を有していた為、幕府から危険視され、色々な迫害を受けた方でもあります。
その為、迫害を警戒し、突然攻め込まれないよう、土地を見抜く目も持ち合わせていたのだと言われていま
す。
その目をもって選ばれた土地こそ石山本願寺が建つ土地なのです。
当時、その土地は周りに何もなく、田舎の原っぱだったと言われています。