生き方の拠り所(どう生きていけば・・・)

投稿日: カテゴリー: 日記未分類

おはようございます。住職です。

今朝は目覚めが早すぎました。4時に目が覚めてしまいました。

まだ頭は眠いのに、目が覚めてしまうのですから、辛いのです。

寝不足 イメージ (フリー画像引用)

さてさて、連載の続きです。

これまでは、自分を取り巻く外部環境(地域社会や国や一族など)によって、否が応でも、ある種の強制的

生き方の枠が勝手に定められていたのですが、個人化する流れの中で、それらの力が勢いよく失われてきた

のです。

ここが近年新たに起こってきた日本人の問題だと私は考えています。

この生き方のアイデンティティの問題は、人間の根本的な問題となり得ます。

ですから、これを抜きにして生きていくことは、危険なのです。

生き方のアイデンティティが形成できなければ、人生において、時として何か問題が起こった時に、猛烈な

自己不信に陥ってしまう可能性もでてくるでしょうし、時として重要な決断を下さねばならない人生の岐路

で、自己が進むべき道が明確に決断できず、右往左往する結果にも繋がるように思います。

右往左往 イメージ(フリー画像引用)

つまり、何となく生きてしまう人間をつくりだしてしまうのです。

「何が良くて、何が悪い」との判断軸を構築できるのは、自己の生き方の拠り所次第によって変わります。

人生の中で重大な決断をしなければならない局面に出あう際、もっとも頼りとなる判断軸こそ、

自分の生き方のアイデンティティです。

それがあれば、多様性の中でもしっかりとした自己主張が保てるし、責任ある決断もできるのです。

逆に、それがなければ、自己がわからず、右往左往する人生となってしまいます。

おそらく、自分がよくわからず、周りに流され右往左往する人生を好む人はいないと思うのです。

なぜなら、周りに巻き込まれ右往左往する人生は、疲れるからです。

悩み疲れ イメージ(画像引用)

生き方のアイデンティティは、個別に自分勝手に養えるものではなりません。

そもそも自分なんて、地に足がついていない生き物です。間違いだらけです。

だからこそ、頼りない存在なのです。

私は、実はこの生き方のアイデンティティの拠り所になり得るとすれば、それこそが仏教なのではなかろう

か?と思っているのです。

私は、これまでの2500年を越える仏教の歴史の中で、今ほど仏教の力が発揮できる時代はないのではないだ

ろうか!?とさえ思っているほどです。

運動再開

投稿日: カテゴリー: 日記

こんにちは 住職です。

連載をしてきましたが、今日はちょっと別の話題です。

私は今日から、久々に運動を再開しようと思っています。

今朝は、軽くやってきました。

9月に入り、雨降りが続き、さらに昨年私は秋のお彼岸頃から咳喘息を再発したこともあり、

運動で疲れが溜まっていたこともあって、今年の秋は慎重に過ごそうと考えていたのです。

9月に入ったと同時に、天候不順が続いたこともあり、さらにワクチン接種もあったし、体調を

優先したのです。10月4日に2回目のワクチン接種を終え、今日で一週間が経過したこともあり、

体調と相談しながら、今日は再開してみました。

因みに、2回目のワクチンで、私は副反応がありました。

非常に身体が怠くなり、翌日に発熱。一日発熱していましたが、風邪薬を服用したら、解熱して

翌日には快復できました。

咳喘息と、ワクチンの副反応などを考慮し、慎重に過ごしてきました。

今は、普通に過ごせているので、運動を再開してみたのです。

明日から、涼しくなるそうなので、体調の変化と相談しながらですが、運動継続を再開できたら!と

思っています。

一応のご報告でした。

アイデンティティ

投稿日: カテゴリー: 未分類

おはようございます。住職です。

これらのように、以前は生き方のアイデンティティの根源が、自分の外の環境から自然と作

られていたのです。

それが戦後教育の中で個別化の価値観が進み、現在の日本では地域社会が崩壊し、個人化が進みました。

画像引用 persolさんより

さらにインターネットの影響で世界と簡単に繋がれる状態となり、多様性を尊重する社会が創られつつあり

ます。

これは素晴らしいことだとは思いますが、個人化と多様性を認める社会が進んだことで、これまでの自分の

外部からの影響が剥ぎ取られてしまいました。

いわゆる地域社会だったり、家制度だったり。

それらが剥ぎ取られた結果、肝心の個人個人の生き方のアイデンティティが自然と形成されず、一人ひとり

に委ねられてしまったのです。

しかし、どうやって生き方のアイデンティティを見出していくのか、そんな経験をしたことない人達ばかり

です。

結局、どう生きていくべきなのか?自分の生き方のアイデンティティが見失われる結果が、現在の時点なの

だろうと思います。

拠り所

投稿日: カテゴリー: 日記未分類

おはようございます。住職です。

おそらく、今後のお寺の役割は、個人個人の生き方の中心軸となっていけるかどうか?だと私は思っていま

す。

多様性が求められる現代。

色々な人の存在を認め合う社会。

しかし、その根本となっている個人の生き方の拠り所まではまだ問われていません。

むしろ、個人個人に視点を当ててみると、それぞれの生き方の拠り所が脆弱である可能性があります。

人間一人だと寂しいものです。

どう生きて行けば良いのか?自信が必要なのですが、その自信が持てないのです。

なぜなら、拠り所がしっかりと確認できていないからです。

拠り所は、木の支えとなる部分の根っこのことです。(イメージ画像引用)

例えば、上の画像で例示すれば、木の根っこが、拠り所となるでしょうか。

そこがしっかりと根付いていれば、木の幹として例えられる「自分は何者なのか?」という部分がしっかり

できてきます。

画像には、幹の細さは関係ないと書いてあるけど、根っこがしっかりしていたら、幹は太くなるはずだと私

は思いますが。

また、木の枝の部分は例えるならば「自分がどう生きて行けばいいのか?」という部分に例えられるかも。

より進展させれば、自分がどのように生きているのか? どんな行動をしているのか? どんな人生を歩ん

でいるのか?など、そんな部分が枝の部分だと思います。

画像では、木の枝(太さは関係ない)とありますが、拠り所となる、根っこがしっかりしていて、幹も太け

れば、枝も必然的に太くなると私は思います。

このように、自分がしかりと自信をもって生きていくには、拠り所が必須だと私は思います。

自分が何を大事にしているのか? 自分は何者なのか? 自分はどのように生きて行けばいいのだろうか? 

とても漠然とした問題ではあるけれど、充実感をもって生きていくには必要不可欠な部分です。

特にこれまで(高度経済成長期頃)の日本社会では、生き方の道標は、地域社会の中にあったと思われま

す。

地域の眼を気にしながら、生き方のアイデンティティを構築されていったのです。

アイデンティティ=自我同一性と日本訳されます。 (画像引用)

その前(明治期から戦争後頃まで)は、おそらく天皇中心の国家観だと思うので、日本国や天皇が拠り所と

なっていたはず。

それ以前(江戸時代だったり、広くは武家社会)は、おそらく家族や一族が拠り所だったと思われます。

特に武士家系であれば、家に伝わる刀剣こそが生き方の象徴だったのかもしれません。

西照寺蔵 11月3日開催の文化財鑑賞会にて展示予定 

お寺もチャレンジ!

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

昨夜は大きな地震だったようですね。

地震イメージ (フリー画像引用)

私、西照寺で地震を体感したのですが、せいぜい2~3程度でした。

しかし、直後に埼玉南部と東京足立区で震度5強。埼玉は軒並み震度5弱と発表されていたので、驚いた

のです。西照寺がある東松山市は震度3と発表されてました。

今後も、余震なのか、もしかしたら本震なのかわかりませんが、あるかもしれません。

気を付けましょうね。

実は今日、私は築地出勤なので、ちょっぴり不安になってます。( ノД`)シクシク…

さてさて、連日の続きです。

これからのお寺の役割を上手く見つけられるかどうかは、それぞれのお寺を担うお坊さん次第によってなの

だろうと、私は思っています。

上手い事役割を見いだせたお坊さんが所属するお寺は当然残るのだろうと思うのです。

それが、社会から必要とされるからです。

しかし、上手い事社会に適合するお寺の役割を見つけられないと、解散の方向に振れていくのだろうと思い

ます。

もちろん、これまで通りの役割で運営できていれば問題ないですし、実は私もそうであって欲しいのです

が。

今の私は、ここまで10年かかりましたが、ようやく今後の西照寺が担うべき役割の方向性が見えてきまし

た。

ただし見えてきただけで、それが社会に通じるかどうか?はわかりません。

やってみないと。

ですから、やってみることにしたのです。

チャレンジですね。

チャレンジ!!! (フリー画像引用)

変化はするもの。諸行無常だから

投稿日: カテゴリー: 未分類

こんにちは 住職です。

現在の日本は、経済的に弱体化し、かつ今後も衰退化する方向に進む気配が優位だと思えます。

少子高齢化・人口減少問題を抱えている為、日本経済の成長!よりも、衰退!の方が自然な流れです。

少子高齢化イメージ (フリー画像引用)
人口減少 イメージ(フリー画像引用)

この変化に、お寺も上手に適応していかないと解散する方向に進んでいくだろうと思われます。

明治期以降のお寺の営みと同様に、今後も仏事だけ勤めればよい!という訳には、私はいかないのだろうと

思っています。

むしろ、新たなお寺の役割を見出す必要があると、私は思っているのです。

もちろん、今の役割をこなしつつです。

これまでの日本のお寺の長い歴史を振り返ってみると、時代の違いによって、お寺の役割は変わっているこ

とが解ります。

現在のお寺が担っている中心的役割は、せいぜい150年前から始まり、継続しているものだと思われます。

1500年続いている日本のお寺の歴史から見ても、ごく一部です。

しかし、今生きている私達の時間軸から見れば、「お寺って、今の役割こそが全て!」のように映ってしま

いがちです。

だからこそ、多くのお坊さんが変化を嫌う傾向が私には感じられるのです。

「今のままでいいんだ!」と。 

むしろ「お葬式はやらなきゃダメだ!」「法事を増やさないと!」などと考えていそうです。

主張はとても理解ができるのですが、しかしこれって、完全にお坊さん目線。

「~しなきゃいけない!」なんて、残念ながらそんな強制的な義務ないんだもの。( ノД`)シクシク…

さらに「コロナが落ち着けば、元通りに戻る!」と考えられているお坊さんも多いと思います。

これはこれでいいと思うのですが、私の考えは、多くのお坊さん方とは違うようなのです。

そう! 私は変わっているようなのです。

多くのお坊さんと違う考え方をしているし、残念ながら分かり合えることがあまりありません。

私が言っていることが分かってもらえないことは多々あります。悲しいですが、今ではもう慣れました。

慣れてしまうと恐ろしいもので、今では、他から受け入れられなくても、何とも思いません。

むしろ、最近ではわかってもらえないから、言わない!方向にシフトしてます。面倒臭いから。(笑)

さてさて、私的には明治期以降150年続いてきたお寺の役割は、ついに限界を迎えた!と感じています。

そもそも江戸幕府から明治政府に体制が新たに移行した時点で、お寺の役割は弱体化し厳しくなった

のに、檀家制度と時代の流れで、よく150年も延命できたものだ!と、むしろ感服しているくらいです。

面白いですよね。人によって、見方を変えると全然違うように見えているのですから。

お寺だって、お金はかかる

投稿日: カテゴリー: 日記

おはようございます。住職です。

そもそも、江戸時代に多くのお寺が存在することとなり、既に明治期には確か全国でお寺の数は7万件あっ

たような記憶があります。

(以前調べたことがあったのですが、その時に確か明治時代のお寺の数も見たような記憶があるのです。勘

違いかもしれませんが)

少なくとも、昭和初期には7万件あったように思います。

日本のお寺 フリー画像引用

以後、現在でもお寺の数は7万7千ほどあります。大手主要コンビニの総体数よりも多いのです。

確かコンビニの数は5万店舗です。

コンビニイメージ フリー画像引用

それに対してお寺は7万7千ほどあるのです。多すぎですね。

当然、お寺は商売ではありませんから、目的として利益を追求していません。

しかし、お金が回らなくなると、運営ができないので潰れます。

お寺が潰れることを、解散といいます。

お寺だから!と言って、電気代やガス代などが免除されるわけもなく、普通です。

光熱費 フリー画像引用

お布施に対する税金と境内地に対する課税は免除されていますが、お布施以外の収入には課税されます。

施設は老朽化すれば、お寺のお金で修復しないといけないし、維持管理にもお金は必要です。

正直、私もお金のことなんて考えないで活動できればいいと思いますが、そんな訳にはいかないのです。

経済社会に生きるって大変なのですね。

西照寺を含め、全国のほとんどのお寺は、経済的な運営問題を抱えているのです。

言うか言わないかだけの話しなのです。

お寺も焦る

投稿日: カテゴリー: 情報・お知らせ日記

おはようございます。住職です。

日本でバブル経済が崩壊後、「失われた30年」と言われるように、日本は経済成長を遂げられず、弱体化し

ています。

格差が広がり、安い商品しか買わない日本人の気質も手伝って、物を売るにも大変です。

いわゆるデフレですね。

デフレ 無料画像引用

日本人はなぜか安いものを買おうとするので、物価も上がらず、働く人の給与も増えません。

しかし、消費税はあがり、世界の他国は経済成長をしている為、日本の輸入原材料やコストが上がります。

なので、日本はますます苦しい状況となっています。

企業も、仕入れコストが上がれば、仕方なく値上げせざるを得ませんが、物が値上がりすると、国民のお財

布の紐はかたくなります。まさにデフレスパイラルですね。

こうなってくると、当然お寺も影響を受けます。

これまで営まれてきたご法事が減少するようになるし、ご葬儀も簡略化します。

高価な墓石のお墓は売れなくなり、逆に値段が安い永代供養墓や樹木葬などが求められるようになってきま

した。

高級墓石 画像引用

このような状況によって、ようやくお寺の運営問題が深刻化、表面化してきたのが、10年ほど前からだと

思われます。

換言すれば、これまでお寺という業界では、仮に運営問題が厳しくても、公の場でお金に関する話題を嫌う

業界だった(私が感じるのは、多くのお坊さんは真面目で、お金の為にお寺をやってるわけではない!教え

が大事なんだ!と主張するお坊さんは多いです。本当に良いお坊さんが多い。でも、お金がないとお寺の

運営はできなくなるので、お坊さんが敢えてお金を見ないようにしようとする姿勢に、私は疑問を感じてま

した)のですが、今や運営問題を公然と口にせざるを得ない苦しい状況となってきた。

この変化は、この10年くらいで顕著になってきました。ようやく現実を直視しないといけなくなったのだろ

うと思います。いわゆる追い込まれてしまったのです。

また、コロナが登場してきたことで、お寺の衰退化は早まっていると思われます。

急激に変化した日本の経済的問題が、当然ながらお寺にも飛び火してきて、お寺は変化のスピードについて

いけないままいるのです。

経済成長とお寺

投稿日: カテゴリー: 日記未分類

おはようございます。住職です。

日本中が高度経済成長で一億総中流社会と言われるように、誰もが同じような生活を送ることができた時代

がありました。

高度経済成長 イメージ(画像引用)

1970年代~1980年代の頃です。

日本の高度経済成長 イメージ2

まるで理想の共産主義国家のようですね。格差があまりない豊かな社会です。素晴らしいですね。

この頃、お寺も豊かになりました。

国民が豊かになり、かつご先祖(特に戦争で亡くなった若かりし父や祖父など)を大切にされる気持ちが強

かったのです。

高度経済成長と共に、ご葬儀が派手になり、参列者も多く、ご法事などにもお金をかける時代だったので

す。

大きなご葬儀 株)メモリードさんより画像引用

これは経済的流れと比例しているように思います。

この時、お寺も豊かになることができたのです。

明治時代に懸念化されたお寺の根本的な運営問題も、檀家制度の名残りと、戦争と高度経済成長によって、

結果的にその核心は先送りされることとなったのだと私は思います。

やがて、バブル経済が崩壊し、1990年以降今に至るまで、日本は失われた30年と言われるように、経済成長

しないままの状態が続いています。

給与は上がらないどころか、むしろ微弱かもしれません。

物価も上がらず、世界の他国と比較しても、日本は相対的に弱体化しています。

今では世界一、物価が安い先進国のようです。先進国なのか?とも思ってしまいますね。

戦争は絶対ダメ 

投稿日: カテゴリー: 未分類

おはようございます。住職です。

やがて、大正、昭和と時代が移行していくことになります。

大正から昭和にかけて、この頃に大問題が起こります。

戦争です。

戦争 フリー画像

多くの戦死者をだし、外国の戦地で命を落とされ、遺骨がどこにあるのかさえも判明しない人も多くおられ

ます。

大きな悲しみを引き起こした戦争。

絶対に繰り返してはいけないと思います。

戦争はやってはいけません。

私もそう先輩方から聞いています。そして、記録を見ています。

自分は経験していないけれど、体験された先輩方は絶対戦争はやってはいけない!と伝えてくれています。

体験者の皆が口をそろえて戦争は絶対やってはいけない!というのですから、絶対ダメなのです。

戦争はダメです 画像引用

その戦争で命を亡くされた方々を顕彰する為に、多くのお墓も建てられました。

遺骨が無くても、多くの顕彰碑だけは建てられています。

このような悲劇によって、おそらくお寺では戦死者に対して追善供養(浄土真宗では追善はできないのです

が)も多く営まれたのだと思います。

その方々の命を踏まえて、現在があると思うと、やはり大切に考えねばなりませんね。

若くして死にたくなかったことでしょう。元気な身体で、恐かったことでしょう。悲劇です。

大きな悲しみを踏まえて、日本は敗戦しました。

荒廃し、GHQと日本政府とのやり取りで新憲法が整えられ、以後の日本が歩む土台が整えられたのです。

もはや敗戦国ですから、おそらくGHQ(特にアメリカ)の強い影響力を受け入れ、新たに整えられた憲法

の土台には、私達日本人の文化の根本でさえ、踏襲されているのかどうかも今となっては疑問です。

憲法 朝日新聞デジタル画像引用

当然、戦争に至るまでの日本人の価値観の一部か、大部分なのか、今となってはわかりませんが、その価値

観を憲法に踏襲されることはなかったのだろうと思われます。

であれば、今の私達日本人は、この時に大きなもの(日本人としてのアイデンティティみたいな核心的価

値)を失っている可能性はあると私は思います。

敗戦後、残された日本人は必死に頑張ってくださいました。

やがて高度経済成長を遂げ、日本国民は、経済的に豊かになることができました。

1970年代から80年代の前半は、世界で日本人の評価は素晴らしかった!と聞きます。

今は随分後退してしまいましたね。